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『虐待から子どもを守る!~教師・保育者が必ず知っておきたいこと~』
加藤 尚子 著, 小学館, 2017年7月25日
どんな本?
「虐待」について、子どもに関わる周囲の大人たちはどのようなことに気を付けるとよいのか、どのようにして対応すればいいのか、などということについて書かれた本。創作症例なども多数掲載されており、イメージもけっこうしやすかった。また医学書などのように固い雰囲気で書かれているわけでもないので、「支援に携わる人たちがまずはじめに手に取るのにもぴったりかも!」とも思えた。
より多くの教師や保育者の方に、本を通して児童虐待についての知識を少しでも多く蓄えていただくことで、親と子どもの苦しみを軽くし、そして支援に当たる先生方自身のことも応援したいと考えました。忙しい日々の中で、通勤電車の生き帰りや、少しの隙間の時間に読んでいただけるように、正しい知識を盛り込みながらも学術書のような体裁をとることは避け、できる限り読みやすさを優先しました。
P4
気になった箇所と、考えたこと
1つ目:「子育ては1人で行うものではない」ということについて
専業主婦とワーキングマザーの子育てに対する意識について調査したものがあります。
P16
そこでは、専業主婦のほうが育児の負担感が高く、「自分がこどもにとってよいことをしている」と思えず、母親自身の自己肯定感も低くなっている、という結果が出ています。働きながら保育所や周囲の大人の手を借りて子育てをしているワーキングマザーのほうが、自分は母親として子どもにとってよい関わりができており、子育てに充実感を覚え、自分自身に関しても自信をもてているというのです。これは、やはり、子育ては母親一人で行うものでなく、複数の大人が協力し合って行うべきものであり、一人の子育ては負担感が高く大変であることの一つの証ではないでしょうか。
これを読んだ私はその証拠とやらを確かめてみたくなったので、(本当にすこ~しだけだけれど)調べてみた。すると、ひとまず以下の2つが見つかった。↓
時代とともに「社会のあり方」や「子どもの育つ環境」などが変化していることはやはり、何かしらの影響は与えているのだろうなあ、とは思う(子にも、親にも)。でもその大変さや難しさを理解したければ自分も親に……それが無理でもせめて「大人」には、ならないと無理なのだろうか……。
少しずつ少しずつ、今よりももっと、いろいろな人たちと関わってみたい。いろいろな世界を見てみたい。そのうえで、どうすれば自分も「支えるたくさんの人たちのうちの1人」になれるのかを、考えてゆきたいなと思った。
2つ目:「見られていない場所で『よい行い』ができる」ことについて
しつけとは、他律から自律へ、行動や規範、道徳心を内面化させることです。簡単に言えば、社会で暮らす多くの人が共有している外側にある望ましい基準を、子ども自身のものにしていくプロセスと言えます。人から言われなくても、他人が見ていてもいなくても、正しい行いができるようになることや、人から強制されなくても、望ましい行動が取れるようになることが、「よくしつけられている」状態です。知っている人に合ったときに、お父さんやお母さんから「ご挨拶しなさい」と言われなくても、たとえ一人でいるときに会ったとしても、きちんと「こんにちは」と挨拶できる子どもが、「よくしつけられている」子どもと言えます。はじめ子どもは、何がよくて何が悪いかといったような、物事の善悪を判断する基準をもっていません。また、自分の欲求や感情をコントロールする力も十分に育っていません。こうした道徳心や良心、物事の善悪の基準をもつことや、欲求や感情をコントロールする方法を親が子どもに与えていくことが「しつけ」だと言えるでしょう。
P27~28
読んだとき、「え、これってまさしく哲学やん!!」と思った。特に、アリストテレスとカント。ちょうど今読んでいる本の中に、上の引用箇所にぴったり合う文章を見つけていたのである。↓
そうだとすると、<いちばんよい>のはなんでしょうか。これは、古くからある問いです。古代の哲学者、アリストテレス(前三八四ー三二二)は、彼の息子の名前を冠した著作『二コマコス倫理学』で、いつでもそれ自身として望ましく、他の何ごとかのために望ましいのではないものこそが究極の<よい>ことだと指摘します。私たちのカントもまた、そうした<他の何もののためでもなく、よい>ことの存在を指摘します。それは、たとえば、誠実であること、嘘をつかないこと、困っている人を助けることであり、総じて言えば、道徳的に行為することです。
『自分で考える勇気 ——カント哲学入門』御子柴 善之, 岩波ジュニア新書, 2015年3月20日, P31~32
確かに、困っている人を助けることは、助けられた人から感謝されるからよいのでも、自分がその振る舞いによって満足するからよいのでもなく、それ自身でよいのではないでしょうか。こうした道徳的な意味での<よい><よさ>をこれからは「善」と表現しましょう。道徳的な善を表現することこそが、<いちばん善い>ことなのです。カントはこれを「最上善」と呼びます。
『虐待から子どもを守る!』で今回書かれていたのは「本当の『しつけ』とは何か?(暴力などではなく)」というテーマの部分にてだったが、これによって「哲学の考え方は、実生活上でもおおいに生きている」ということがよくわかった。
「役に立たなさそうだから」と食わず嫌いをするのではなく、どんなことにもとりあえす一歩、足を踏み入れる好奇心をこれからも持ち続けていたいな。
3つ目:「トラウマ体験を『肉の塊』に例える」ことについて
トラウマ体験は、トラウマ記憶をつくり出します。トラウマ体験は心が耐えられないほどの衝撃であるため、そのときの記憶を瞬間冷凍させ、トラウマ記憶をつくることで対処しようとします。トラウマ記憶というのは、出来事のエピソードや内容などの記憶だけでなく、匂いや触覚、にらみつける表情や髪型、服の色などの目から入ってくる視覚情報、物音や声などの聴覚、味覚、その場の雰囲気など、五感で感じられた感覚記憶も含まれます。いわゆる起きた出来事の記憶よりも、五感から入ってきて残る記憶の方が強いとも言われています。また日常のささいなことから、この記憶や感覚が呼び戻されることになるため、より子どもをパニックに陥らせやすいとも言えます。
P80~81
そうしてしまい込まれたトラウマ記憶は、いわば消化不良の塊と言ってもいいかもしれません。そのときの子どもの力では、理解することも消化することもできないほど強烈で圧倒的な大きな衝撃なので、心を守るためにその肉(衝撃や記憶)を咀嚼したり消化したりすることをいったん放棄し、そのままの形で奥深くにしまい込むのです。しかしながら、消化されないままお腹の中に抱えているために、消化不良を起こしてお腹が痛くなったり気持ち悪くなったり(侵入症状)、時にはそのままの形で出てきそうになってしまったり(フラッシュバック)、出てこないようにするために他のことを考えたり自分の気持ちや身体の感覚を鈍らせたりする(解離)というのが、トラウマの症状だと言えます。
これはとても面白く、分かりやすい例え方だなと感じた。特に「トラウマ」についてまだあまりよく知らない人に伝えるときなどには、かなり使える説明方法だと思う。こんな感じで。↓
「トラウマ・インフォームド・ケア」(←これについての投稿は、また後日書くつもり)の視点で考えるときにもそうなのだが、特に大切なことのうちのひとつは、やはり「知ってもらう」ことだと私は思う。ただでさえその人は「トラウマ」になるようなつらい体験をしているのに、「知らない」ことが原因で周りの人からさらに、追い打ちをかけられるように辛くさせられてしまうこともあるからだ。そういった意味でも「誰にでも伝わりやすい(かもしれない)説明のしかた」を1つや2つ持っておくことなども、それなりに役に立ちそうだなあなんて思った次第である……。
4つ目:「つながりの病理」について
子ども虐待の病理の特徴は、親しい間柄で起きる「つながりの病理」であると言うこともできます。程よい距離を保ちながら、子どものことを通して保護者にアプローチをしていくことが重要です。
P137
この部分を読んだとき私は、「なんだか既視感がある~」と思った。それでしばらく考えてみると、ある1冊の本のタイトルを思い出した。それがこれ(とはいえ、まだ読んだことはないのだけれど。笑)。↓
今改めて数件レビューなどを読んでみると「むむ、今回の本『虐待から子どもを守る!』に書かれていた分野とも、けっこう重なる部分がありそうだぞ……。」と思った。今まで、なぜ読むのを先延ばしにしていたんだぁ!過去の自分~~!!笑
また折を見てどうにかして手に入れて、読んでみることにしよう。
5つ目:「話さない約束はしない」ことについて
話を聞く場所は、子どもが落ち着いて話せる場所を選ぶことが必要です。そして「他の人には決して話さない」という約束はしてはいけません。特に子どもから自発的に虐待の事実が打ち明けられるときなど、子どもが「他の人には言わないで」「お父さん(お母さん)には言わないで」ということがあります。しかし、そのような約束をしてしまうと、子どもとの約束を守れば教師や保育者は校内や園内で情報を共有したり相談や通告をしたりすることができなくなり、他の人に話せば子どもとの約束を破ったことになります。約束を破られた子どもは、大人への不信を深めることになります。ですから、話を聞いていくときには、「あなたを守るためには他の人に話をすることもある」ということをきちんと伝えなくてはいけません。その上で、大人がみんなで一生懸命にあなたのことを真剣に考えていくこと、協力してあなたを守っていくつもりであること、相談することでいろいろな人の助けを借りることができること、そうすることがあなただけでなくどの子どもにとっても一番よい方法であることを、話を聞く大人が自信をもって、根気強く子どもに伝えていくことが大切です。
P147~148
(中略)
子供は様々な葛藤を抱えながら話をします。話を聞いた後は、「あなたは決して悪くないこと」「打ち明けたことは必ずお父さんやお母さん、あなたのためになること」「これからも色々な大人が一生懸命あなたの力になっていくこと」をしっかりと伝え、子どもの不安に配慮することが大切です。
これは私にも、すごくすごくものすごく、心当たりがある。ちょっとその頃の(まあ今もまだそうなんだけど。笑)気持ちを思い出しすぎて、書いて言葉にすることに対して若干怖気づいてしまうくらいには、この感情には見覚えがある。
相談する相手はたいていいつも、「誰にも言わないよ、本当だよ。だから安心して話してみて。」とか「秘密は絶対に守るからね。」とか、そういうことを言いながらなんとかしてこちらの悩みを聞き出そうとする(と、少なくともその頃の私にはそう感じられた)。でもね。
私はいつも思っていた。「どうせ何か事が大きくなったときには、私に黙って第三者、あるいは私が一番伝えてほしくない相手、などに伝えてしまうんでしょ。いいもん、べつに最初からひとのことなんて信じていないし。」と。心の中で。
だからこそ、と思う。もし「このような理由だから、共有することもあるんだよ。」と、大人たちから何度も伝えてもらえていたら?あるいは「私(←今相談を受けようとしている大人)だけではないんだよ。他にもたっくさんのひとたちが、子どもたちのことを支える役割についているんだよ。」ということを、教えてもらえていたら?もしかしたら私の常に疑ってかかっていた(笑)気持ちも、少しは違ったふうになれていた、のかもしれない。
子どもたちの応援団は、本当はたくさんいるんだよ、ってこと。関わる周囲の人たちが認識するのはもちろんのことだけれど、それを「子どもたち自身が」理解することも、きっと大切なんじゃないかなと私は思う。今はまだ「大人」にもなっていないいち子どもの意見としても、とくに。
6つ目:「他機関とつながる」ことについて
また、うまく連携していくためには、それぞれの関係機関の役割を明らかにする必要があります。そのためには、自分たちの専門性を意識(自覚)しつつ、他機関の専門性も理解しようとする姿勢をもつことが大切です。なぜなら、各機関によって見えている景色が違うことがあるからです。それぞれの機関によって、何がこの家庭にとって援助となるのか、「子どもの最善の利益」をどう捉えるか、ゴールはどこからなどが異なっている可能性もあります。
P156~157
上の文章、特に「各機関によって見えている景色が違うことがある」という部分を読んだときに私は、とてもはっ!とした気持ちになった。確かに、各分野のプロたちは、その立場からであれば「専門的な」支援を行うことができる。でもでも、いつでもその「1つの立場」からのアプローチだけでは、じゅうぶんとは言えないよね……、というお話だ。
実は、以前私が読んだ本『はじめての精神医学』にも、こんなことが書かれていた。↓
ただ、ひきこもりの状態にある人にフォーマルな対人援助を行うことができるのは、精神医学だけではありません。精神科以外のアプローチがこの場合、有効なこともあります。病院や診療所という医療の場を離れたところで、心理カウンセラーが長期的視点でかかわっていくことも有効でしょう。二〇〇九年から始まっている厚生労働省の「ひきこもり支援推進事業」ではマニュアルもつくられていますが、家族カウンセリング、医療および医療以外の様々な制度を利用することが推奨されています。
『はじめての精神医学』村井 俊哉 著, ちくまプリマ―新書, 2021年10月10日, P177~178
このように、「ひきこもり」の支援には、精神医学の専門職だけでなく様々な専門職が支援にかかわることができるのです。さらにいえば、相談に乗ることができる人は、こうした専門職だけではありません。専門職でないとしても、人間と人間の関係を通じて、自分の信念で「援助を差し伸べてよい」のです。専門的でフォーマルな支援ではない、ということは、この通りの言葉を話していればよい、というような。型にはまったマニュアルは存在しない、ということです。当然、援助する人の価値観も表に出して伝えてよいということですし、むしろ価値観は表に出して伝えるべきなのです。
上記でのテーマは「虐待」ではなく「ひきこもり」だが、それでも「言わんとしていること」はなんとく重なる部分があるのでは……と、私は思う。
人って結局、ひとりでは生きていけないんだよね……。「つながり」それにはもちろん本当にいろいろな形があっていいのだと思う。いや、あるべきだと思う。だけれども、それがすべて絶たれてしまった社会はやっぱり(いろいろな意味で)さびしいものになるよなあ、とも思う。
頼れるときにはとことん頼って。一人ひとりが、生きていくことのできる社会となるといいな、なんて思う。きれいごと、って言われちゃうのかもしれないけれど……。
※以前『はじめての精神医学』を読んだときの読書記録は、下記へ。↓
まとめ的な、感想的な。
と、いうことで。今回この本『虐待から子どもを守る!』を読んだ私が思ったのは、とにかく「もっといろいろな『外の世界』を見てみたいよ!!」ということだった。いろいろなものごとを自分で見る。いろいろな人と関わってみる。それが結局、あたらしい「自分」や「視点」を作っていってくれるんだろうな、と、読みながら何度も思わされたからだ。
そろそろ自分の殻を、すこ~し破ってみてもいい、のかもしれない。
ほんのちょっとだけ、でいいからさ。
出してみようかな。勇気……。