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『流浪の月』
凪良 ゆう (著), 東京創元社, 2019年8月30日
図書館本。過去(2020年)に本屋大賞を受賞されていたということもあり、話題になっていたときから「ぜひ一度読んでみたいなあ」と思っていた。この度やっと予約の順番がまわってきたので、1日かけて一気読みしてしまった。
どんな本?
「出会うべきではない(のかもしれない)」人たち。だけどやっぱり存在を無視することはできなくて、心の奥底には求める気持ちが未だにあって。
「であう」ってなんだろう、「この世界で生きる」って、一体どんなことなんだろう。そんなことを思わずにはいられなくなる、苦しくて儚くて、だけどやっぱり「生きる」ということをどうにかして選ぼうとしている人たちについての物語。
(※なおこの小説には一部、暴力的だったりトリガーとなる可能性があったりする描写が含まれている。トラウマを持っている方などが読むさいにはそのあたり、心をよく気にかけながら読むという注意が必要かもしれないな……と私は思った(実際に私も読んでいる途中で苦しくなってきたりしたので、もう読むのをやめてしまおうかとも何度か思った……。とはいえ結局は、結末を知りたいという誘惑に負けて最後まで読んでしまったのだが)。)
心に響いた箇所の引用
週刊誌の記事で事件を知った人も多く、逮捕から十五年という時間は無となった。またも一から繰り返される文への罵倒、揶揄。被害女児であるわたしへの同情、好奇。
P299
そのなかにひとつだけ、毛色のちがうものがあった。
[彼が本当に悪だったのかどうかは、彼と彼女にしかわからない]
短い一文。わたしはなぜか谷さんを思い出した。
《北極星》という投稿名が、あの日、夜空を見上げていた谷さんと重なったのだ。天の極北に位置し、すべての旅人に道を示す北極星。特に光り輝いてもいない、とわたしは思ったけれど、谷さんはわたしとはちがうなにかを、あの暗い夜空に探そうとしたのかもしれない。
おそらく、この投稿は谷さんとはなんの関係もない。そうであれば文は救われると、わたしは都合よく思い込みたいだけだ。赦されたい、救われたいという弱くて身勝手なわたしの願い。
あの日、谷さんを混乱させた弱さがわたしにも、文にも、このレビューを書いているすべての人たちにもあって、誰かを指さしながら、みんななにかに怯えていて、赦されたいと願っているように感じてしまう。一体誰に、なにを赦されたいのかわからないまま。
そんなことを思うわたしの心も、また少しずつ変化している。
「……誰も、なんも、知らないくせに」
P308~309
高校生たちが店を出たあと、梨花がぼそりとつぶやいた。
去年の冬休み、三人で食事をしているときふいに梨花が泣き出したことがあった。なにかあったのかと訊いても答えず、帰り際にようやくインターネットを見たと言った。ぼくと更紗の過去を知ったのだ。もう会いたくないと言われるのを覚悟したが、
ーー文くんは、そんな人じゃないのに。
ーー文くんと更紗ちゃんは、すごくすごく優しいのに。
ぼたぼた涙をこぼす梨花を、更紗は黙って抱きしめた。
ふたりの姿を前に、ぼくは言葉にできない気持ちに胸を占領された。
苦しいほどのそれを逃がすために、なにもない宙へと小さく息を吐く。
これだけインターネットが発達した世の中で、ぼくと更紗が完全に忘れ去られることはないのだろう。生きている限り、ぼくたちは過去の亡霊から解き放たれることはない。それはもうあきらめた。あきらめることは苦しいけれど得意だ。
けれど悔し泣きをしている梨花と、その梨花を抱きしめている更紗を見たとき、そんな苦しさも、吐き出した息と一緒に空へと放たれていくように感じた。
事実と真実はちがう。そのことを、ぼくという当事者以外でわかってくれる人がふたりもいる。最初に更紗、次に梨花。ぼくが一時期関わった幼い少女ふたりの、今ではそれぞれ大人びた横顔を、ぼくは言葉にできない気持ちで見つめていた。
ーーもういいだろう?
ーーこれ以上、なにを望むことがある?
腹の底から、ぼくはそう思えたのだ。
感想と思考
数日前、過去のドラマ『明日、ママがいない』の録画を初めて観た(正確に言うととっていたのは私ではなく自分は当時観ていなかったので、録画が残されてはいつつも私が観るのは初めてだった、という訳なのである)。その後にこの本『流浪の月』をひらいたので、読んでいる途中なんどか、『明日、ママがいない』のシーンを彷彿とさせる(ように感じられた)部分にも出会った。
セリフをどこまで引用して良いのかが分からないので(著作権的に……)今ここで詳しくは書かないのだけれど、「事実と真実は違う」ということだったり、「みんななにかに怯えている、それが何なのかも分からないまま。だからといって、それが目を背けていい理由になんてはならない。排除していい理由になんてならない」ということだったり。そういったメッセージは両者どちらの作品にも共通してあって、決して忘れてはいけないものなのだなと私は強く思った。見ようとしなければ見えないものなのだからこそ、それを自分だけにつごうの良いようにねじ曲げてはいけないのだ、とも。
自身のトラウマ記憶(?)の引き金になる箇所も多々あるというということで、内容を少しでも先に知っていれば私は、おそらくこの本を手に取ることはなかったと思う。それに実際読んでいる最中に心をなんというか……かき混ぜられるような気持ちになる瞬間も幾度もあったので、この本を再読することもたぶん、しばらくはないだろう。
でも、だからといって。それはイコール「読まなければよかった」と言いたい、わけでは決してない。こんなもの見なければよかった、と言いたいわけでも決してない。むしろ出会うべくして出会った、出会ってよかった、そう強く言える物語だった。……なぜって?
それは私はこれからも、この混沌とした世の中で生きていかなければならないから。美しいものだけが存在するパラレルワールドで永遠に生きていくことは、きっと不可能でしかないから。
見たくないものも、あるかもしれない。いや、きっとあると思う。ありすぎるくらいにたくさんたくさん、この世に存在するのだと思う。
それでも私はこれからも、「真実」をみようと努められる人でありたい。きっとそれは……すごくむずかしいことなのだとは思うけれど、ね。