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『岩波ブックレット No. 625 新・子どもの虐待 生きる力が侵されるとき』
森田ゆり (著), 岩波書店, 2004年6月4日
気になった箇所の引用
アビューズは「誤用」という意味
虐待という語を日本語の辞書で引くと「むごい扱い」とあります。子どもの虐待という語は多くの日本人にとって残虐な行為を連想する言葉です。しかし「虐待」と日本語訳された「アビューズ」(abuse)という英語は、本来はそのようなイメージを持つ言葉ではありません。
P12
アビューズには「誤用、濫用」という意味があります。日常の英会話の中でも立場・職権の濫用(abuse of the position)、地球への虐待(abuse of the earth)、などといずれも腕力、知力、社会力、武力、権力を持つ者が、その力を誤用したために起きる事柄に関して使われているのです。だから血だらけで残虐なむごい扱いでなくても、子どもに対して大人がその力を濫用した不適切な対応のことが本来の child abuse の意味です。これは本書の旧版でも指摘したことですが、約十年を経て改めて、残虐な扱いを連想させる「虐待」という訳語が日本で定着してしまったことを、残念に思います。
深刻なダメージ
性的虐待はたいへん深い心の傷を子どもに残します。その深刻さは人格形成の核心ともなるべき、信頼の心を打ち砕くことにあります。人を信頼することへの恐れと疑い、無力感、自責感と自己嫌悪、そしてセクシュアリティ(性的感情と性的認識)の混乱は、自己イメージと感情表現能力を低下させ、ひいては世界全体への不信感をもたらし、日常生活に大きな支障をきたします。
P45~46
その身体的影響としてよく見られるものを次にあげました。
自傷、自殺、自殺未遂、薬物などへの依存症。家出、非行、学業不振などの逸脱行動。
性化行動、無差別的性行動(たとえば援助交際など)。
性被害その他の暴力や搾取を繰り返し受けやすい。解離性障害。
複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)恐怖、不安、フラッシュバック、虐待体験の再演、
解離、感情鈍麻、外傷性健忘、どもり。
性的虐待は被害者の内面をしつこく、いつまでも浸食しつづけ、生きる力のみなもとを奪おうとする残虐な行為です。にもかかわらず、その加害行為をした側の罪意識はたいへん低いのです。「嫌だと言わなかった」「本人も楽しんでいた」「性の喜びを教えてあげた」「思いちがいじゃないか」「注目してもらいたい子どもが作り出した夢想」とその弁明は果てしなく続きます。
・わたしがここまでやってこれたのは、素性を明かさない一二人の不思議な仲間たちとの出会いのためです。友だちにはならないタイプの人たち、また会うこともないだろう人たちとの学びと語りから得たことに助けられています。
P72
感想と思考
言葉って、不思議だと思う。
その一言ですべての感情をあらわすことなんてもちろん無理で、だけどやっぱりそんな不完全な「言葉」というものに頼らなければ、胸の内を他者に伝えることはできなくて。この一言がどうにかこうにか、私の感情を伝えるバトンになってくれるはず……なんていう思いを託されて、言葉は私の口からぽんと出る。そのくりかえし。
そんなわけだから、もちろんときどき、間違えることもある。うまくいかないこともある。意図せぬ方向に話の内容がとぶこともあるし、相手の逆鱗にふれては「こんなつもりじゃなかったのに」と1人反省会をひらいてしまったりすることもある。その言葉を発したのは紛れもないこの自分なのに、自分ではなく他の誰かの仕業であるかのように、その言動をおおいに恨んだりもする。
もちろん私だって人間だもの、それは当然のこととも言える。いつもいつも、完ぺきな頭でなんていられない。心持ちでなんていられない。疲れたりいらついたりしているときには「言葉」のあつかい方も雑になるし、四六時中その言葉のすみずみまで、注意をむけながら話したり書いたりすることだってできない。そんなの、無理に決まっている。理想はもちろん違うけれど、でもこればっかりは仕方ない。どこかで、諦めなくちゃ。
だからこそ、私は思う。私は、芯のある操縦士になりたい。いつでも理性的にいることは無理、注意深くいることも無理。だけど「芯を持ち続ける」ということにおいてなら、常にそういることだって不可能じゃないのでは、なんて思ったりする。言葉を操縦すること、自分の思いと願いをぴったりと託すことのできる言葉を探し当てること……それらはとてもむずかしいことなのだということに変わりはないけれど。でも「そうありたい」という思いをいつも忘れないでいること、そうした強い芯を心の中にもつこと、それだけは常にできるようになりたいと私はつくづく思う。
言葉の力ははかりしれない。それはときに優しさやあたたかさを届けてくれるけれど、一方でそれはときに、凶器にもなりうる。心理的虐待、というのは今回のこの本の中でも取り上げられていたけれど、どす黒いものが託された言葉にふれさせられ続けることのつらさは、それこそ「言葉」でなんかとうてい言い表すことのできないものだと思う。皮肉なことに。今だって「つらさ」なんて書いたけれど、つ・ら・い、こんな薄っぺらい3文字で表せるほどその苦しみは軽くなんかない。
私ももうすぐあちら側、「大人」側への仲間入りをする。自分では私なんてまだまだお子様でしかないと思うけれど、それでもじょじょに、あちら側へと進んでいくことになるのだと思う。そのとき私が過去にいた場所、「子ども」という立場から見た、私の言葉はそこにいる子たちにどう映るのかは分からない。
だけどやっぱり、これだけは言える。あんな棘だらけの言葉は、私も、まだ見ぬ「子ども」側の子たちも、もうこりごりだということ。そんな暗くて重いものが託された言葉なんて、知りたくなんかないよということ。願いごとは、いつもいろとりどりがいい。もちろん全てが明るい色である必要はないし、苦かったり濃かったりマーブル模様だっり、そんなものがあったっていい。だけど、それも含めて。いつもいろとりどりであってほしい、未来を想起できるものであってほしい、たとえば虹のように。どす黒い願いごとなんて、そんなものが託された言葉なんて、もういらない。
芯のある、言葉の操縦士になること。これが私の、今持っているいちばんの夢。
叶えられますように。