読書記録 -『徴候・記憶・外傷』- 第1章「徴候」

読書記録 -『徴候・記憶・外傷』- 第1章「徴候」


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徴候・記憶・外傷 | みすず書房
人間の根源的な能力ともいえる、「記憶」とは一体どのような意味を持つものなのだろうか。この巨大で困難な問題に、さまざまな領域を横断し、そしてまたさまざまな方法を駆使しながら迫った、精神科医・中井久夫の学問的到達点。そこには著者にとってさえまったく未知の地平がひらかれることになった…
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『徴候・記憶・外傷』
中井久夫 (著), みすず書房, 2004年3月19日


気になった箇所の引用(第1章「徴候」)

 最後に掲した「魔女狩り」は私が四十歳代前半に書いたもので、それ自体が試論である『西欧精神医学背景史』の草稿のそのまた一部であり、東西比較医学史の準備中に一九七一年の国際シンポジウムに発表を求められたものの前半である。英語で書き下ろしたために意を尽くせないところもあるが、かえって大胆になったところもある。このシンポジウムではエランベルジェ先生が指定討論者として立たれ、「あくまで狩られる者の立場に立つべき」ことを強調された。以来、先生とは十年近く文通することとなり、日本で三巻の著作集を編み、童話を出版する機縁となった。なお、香港大学のフェリーチェ列麦リーマク教授が「(魔女が狩られるのは)何よりもまず女性だからである」と強調されたこと、当時社会主義国であったポーランドからの出席者が「唯物論に傾きすぎている」旨の批判をされたことも忘れがたい(いずれも女性教授である)。

P ⅵ

 不安はまずアンテナをとぎすまさせる。とくに警戒性にささげられた聴覚過敏だ。味覚も鋭敏になる。毒がはいっているというひとでなくとも、味がかわるっていう。舌の茸状乳頭という、味蕾の集まっているところが肥大し充血するね。中国医学では舌の毛細血管一般の充血と区別していないけど。感覚のとぎすまされた状態が目に見える唯一の箇所だ。不安な時にアンテナがするどくなる一方の舌の尖あたりはまるでキイチゴのように茸状乳頭がはれ上り充血しているぜ。これは最近見つけたことだが、これが悪循環の始まりだ。「アンテナが鋭敏すぎてホワイト・ノイズをひろってしまっているかもしれないよ」というと、はっと気づく患者もいるね。むかし、小部分から全体を推そうとする意味で「シンタグマ指向性」と呼んだことがある。徴候的認知は「シンタグマ指向性」だ。」

P7

 友人の神田橋條治というと、非常にいい勘をしている治療者なんだが、彼は鬱病では、「いちばん得意と本人が思っている能力がまっさきにやられるからつらいんだ」といっている。そのひそみに倣うと、統合失調症は、発病の過程で「自分がかねがね持ちたくて持てないと思っていた能力が向こうからやってきてやすやすと手に入りそうに思えてくるから誘惑的だ」といいたい。だから、治りそうな時には「ほんとに治っていいの、さびしいよ、ただのひとになるんだよ」と、念をおして、「それでも治ったほうがいい」って心底からいうまで待たないと治っても長つづきしない。どうしてこんなに長引くんだとふしぎな例には、この病気の巧妙な誘惑性がある。今は脳の活動を高めることを善としている社会だからか。

P10

本の背表紙をみると内容がだいたい出てきてしまうことが稀にあって、苦しいから、みんな背中をむけてしまうよりしかたない。本の背表紙は、そもそもサブリミナルな刺激を本棚をみるたびに与えているのだ。本の内容は、本を売り払ってしまうとぐっと思い出しにくくなる。「つんどく」にも何だか効きめがあるのは、あれは表紙の題名とか本の厚みとか装丁が問題を投げかけ、こちらを触発しているからだろう。

P13

 私は私の「メタ私」をじゅうぶんには知ることができない。知ろうとするこころみの多くはさいわいにも挫折する。それは、三次元の図形が二次元に還元しえないのと同じである。

P16

自己意識というものは、安定した円環からのある種の逸脱であって、円環に回帰しようとする傾向性と円環より出立しようとする傾向生徒が抗争して奇妙な力動的状況を構成しているところに生じる不安定な結節点ごときもの、ひとつの逆説的事態ではないかとは、私が「離人症」——自己、自己身体、外界が、まったき対象意識の存在化にもかかわらず、貴重な「実在感」を喪失する――という、一見きわめてパラドクシカルな神経症を考察した際の中間的結論である。

P17

 外界の「メタコスモス」について一言しておこう。内外の区別を疑似概念としたのはウィーン学派のノブロフ Knobloch 博士である。この問題は、精神医学にとって重要であって、「窓の外に樹を見た後に次に見るまでのあいだにも樹は存在しつづけているか」というバークレイの問題にも帰結する。樹の場合には存在し続けている確率場台風でも吹いていないかぎり非常に大きいが、幻聴や妄想や一般に観念やイメージについては、はたしてどうであろうか。注意をむけていないあいだに、それらは存在しているという権利を主張できるのであろうか。夢ではたしかに内外の区別は不明瞭である。そしてそこでは「幻覚」「妄想」かそうでないかはそもそも問題にならない。

P18

 私の使っている意味が、少し独特であるかもしれない可能性がある。
 まず、「徴候」という言葉は、私の使う意味、すなわち未だ存在していないなにかを示唆するという意味では、ふつうの用法と変わっていないかもしれない。しかし、医学の意味における徴候、すなわち、ある疾患の存在を推定させるサインという意味をも含むであろうけれども、もっと曖昧なものである。すなわち、何かを予告しているようでありながら、それが何であるかがまったく伏せられていてもよいのである。むしろ、そういう意味の「徴候」が、主な意味である。

P25

感想と思考

大学へ行きたい。やっぱり、通いたい。そう心に決めたのが11月の半ば、そこからはただひたすらに前だけを見て、諸々の手続きやらせねばならないことやら……をすすめてきた。そしてやっと12月、この慌ただしくもどこか懐かしいような、そんな毎日にようやく慣れてきた気風がある。


「大学へ通いたい」と私が決めた理由のひとつに、「ひとと接したい、ふれ合いたい」と(今になってやっと)強く思いはじめた……、というのがある。この高校3年間はただひたすらに、孤独に時間をすごしていた。とはいえもちろん、ほんとうに「ひとりぼっち」だったというわけではなくて — たとえば本のなかで出会った数々の言霊や思考、それに先人たち。病院、それにそこからつないでいただいた居場所で、いつも変わらず出迎えてくれる素敵であたたかい大人のひとたちなんかもそうだ — どうにかこうにか「外の世界」とのつながり、「社会」とのつながりは絶やさないように、周囲の方たちがはたらきかけてくれていた。

だけど。今になってようやく、「そろそろ『じぶん』の殻を破ってみてもいいのかもしれないな」なあんていう、くすぶりつつある「外向きの感情」に薄々気づきはじめたりもしている(ような、気がする)のだ。このまま自分の comfort zone にとどまり続けることもきっと、それはそれで穏やかであたたかくて、それなりに居心地のよいものではあるのだろうけれど。でもやっぱりさ、ほんとうにそれでいいのだろうか、って。「私って本当は、もっと広い場所にとびだしてみたかったんじゃないの?」「もっともっと広い世界を、この目で、この五感で感じとりたかったのではないの?」って。


専門の先生方たちの先行研究などによると、ASD (自閉スペクトラム症) の傾向をもつ人たちにみられる特徴として「定型発達者(=自分と似ていない相手)に対しては共感をすることがむずかしく、AS傾向をもつ相手(=自分と似ている相手)には共感的な反応を示す」というものがあるのだそうだ(※ただしこの理論はどちらも「『引用文献の著者』が『文章を書いている本人』」であるため、どこまで正確性が担保されているのかは(今の私には)まだ分からないのだけれど……。引用元書籍そのもの、もまたいつか読んでみたいな)。

自閉症者の共感的反応

•自閉症者は、他者に対して共感を持ちにくいといわれてきた(Baron-Cohen & Wheelwright, 2004)。
•ところが、自閉症者は、すべての他者に対して共感を持ちにくいのではなく、定型発達者に対して共感を持ちにくく、自閉症者に対しては共感的な反応を示す可能性(Komeda, 2015)。

Web02_Komeda.pdf

 共感性は、単純に高いか低いかだけではとらえられない概念だと考えられます。共感性を育てる、高めるという考え方は、共感性を能力ととらえ、トレーニングによって向上することができるという信念によって支えられています。ASD(自閉スペクトラム症)とは、社会性やコミュニケーションに問題を抱える神経発達症であり、従来は、他者に対して共感をすることが困難である発達障害であると考えられてきました。

 ところが、近年になって、ASDの方々は他者に共感を示しにくいのではなく、自分と似ていない定型発達者に対して共感を示しにくいということがわかってきました(米田, 2015)。定型発達者でも、自分と似た人に対しては共感を示す一方で、自分と似ていない人には共感を示しにくいことから(Komeda et al., 2015)、共感性とは、高い低いといった一次元の能力というよりも、相手と自分との相性によって変動する多次元的な特性であると考えられます。

異なる他者とわかりあうために:ASDの視点に立つことの重要性(青山学院大学准教授:米田英嗣)#自己と他者 異なる価値観への想像力|「こころ」のための専門メディア 金子書房

自分と似た特性、或いは考え方をもつ相手にはやはりどこか sympathy を感じるから、自然と理解も(互いに)しやすくなる。だから「ASDの人たちは他者の心情を読みとることが苦手」なんていう通説ももしかしたら幻想、虚構なのではないか……なんて思ったりも(私は)する。「苦手」というよりはそもそも、AS傾向をもつ人たちともたない人たちとのあいだでそのものごとの見方、思考の軌跡があまりにもかけ離れているから、必然的に理解をすることもむずかしくなっている。ただそれだけのことなのでは……?なんて、心のどこかで思っていたりも私はするのだ(もちろん定かではないけれど。私がこの仮説の真偽をたしかめるには、持っている知識が現状ではあまりにも浅すぎるから……)。


主治医からは以前にも、私のもっているAS傾向を指摘されたことがある。もちろんトラウマ反応などのこともあるから(杉山先生かな?が唱えられている、卵が先か鶏が先か〜、てきなもの)一概に診断してしまうことはできないのだけれど……というようなニュアンスのことも併せておっしゃっていたけれど。とはいえやはり、いわゆる「(定型的な発達傾向をもつ人たちに対しての)共感性の欠如」が私にあるのは紛れもない事実だと思う。し、過去の私はこれまでに何度も、ひとと関わったりコミュニケーションをとろうとしたりするたびにその現実を否応なしに痛感させられてきた(それがどこか苦しかった時期もあったけれど、今はもう1周回って(?)吹っ切れた、自己受容できた……のかな。「まあ私ってもともと、こういうものだよね」って。笑)。

ただ一方で、それを言い訳にしてばかりいて「私はそれだから、多数派の方々の言っていることは理解できない人間なんです!」って高らかに宣言したいわけではない。むしろ全くそうではなくて、本当は心の中ではいつも、「理解してみたいのに、知ってみたいのに」という思いを人知れず抱えていたりする。あなたの視点に立ってみることはとても不得意ではあるけれど、でもやっぱり本当は見てみたいんだよな、あなたにはこの世界がどう見えているのか、すこしは覗いてみたいんだよな、って。

だから(それもあって)、大学へ行きたいのだ。

(※ちなみに。先に書いたようなような感情をあざやかに言語化してくれている文献があったので、右記にリンクを貼っておく→ _pdf(コピペができない仕様にされていたため、あえて引用することはやめておくけれど)。「そうなんだよ、ほんとうにそんなだよ」と首がもげそうなくらい頷きながら読んだ……。)

(※それともう一つ。先ほどたまたま見つけたおもしろそうな研究(実験?)の結果として、「ASD児は、自己身体感覚への依存が定型発達児と比較して高い可能性が考えられる(引用元→ p202108061000.pdf )」というものもあった。ヴァン・デア・コークの『身体はトラウマを記憶する』の書籍の内容だったり、「感覚過敏」だったりとも何か関連性を見出せるかも……?って、思ったり、思わなかったり。……もっともっと勉強したいよ。「誰か」とともに考えてみたいこと、「誰か」のもとで考えてみたいことが今の自分にはありすぎるんだな……。)


これからもまた今まで通り、限定的な人間関係のなかでぬくぬくと過ごしたってよいはずなのだ。きっとそれなりに嬉しいこともたくさん待ってくれているだろうし、無駄な圧や理不尽さにさらされたりすることもなく、「守ってもらう側のもの」として、穏やかに過ごすこともできるはずなのだ、ありがたいことに。……だけど今の私はやっぱり、(茨の道なのかもしれないけれど)さまざまな特徴をもった「他者」が日常的に自分の周りに存在してくれる場所に、身を置きたくて仕方がないのだ。なぜなのかは、まだうまく言語化できないけれど。

自分とは一段離れた場所にいるもの、ある意味「異質」のものを理解しようと試みること。きっとそれは、ものすごく体力のいることなのだろうし、結果失敗に終わってしまうことだって多々あるのだろうなと私は思う。だけど、それもぜんぶぜんぶ含めて、ふれてみたい、見てみたい。


……なんだかとりとめもない文章になってしまったけれど。「狩られる者」側の場所に一度はいたことのある(そしてこれからもある意味では、「こちら側」の世界に足を突っ込んだままでいることを選ぶのだと思う……自分は。)うちの一人として、それでもなお「そちら側」の世界から、世界を(ほんの少しだけでいいから)覗いてみたいよね、って。

そんな、話。

そら / Sora

通信制高校に在籍中の18歳。 気に入った本や、日々の生活を通して感じたことなどを思いのままに綴ります。 趣味は読書、手芸、それに音楽を聴いたり歌ったりすることです :) I am Japanese, 18 years old and a homeschooler. Keep up with my daily life and journals!! Fav -> Reading, Handmade, Music, etc

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  • Post last modified:December 11, 2024
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