読書記録 -『徴候・記憶・外傷』 – 第5章「症例」, 「あとがき」

読書記録 -『徴候・記憶・外傷』 – 第5章「症例」, 「あとがき」


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◎ 本書についての、これまでの投稿:
(1) 読書記録 -『徴候・記憶・外傷』- 第1章「徴候」 | FUTURE KEY
(2) 読書記録 -『徴候・記憶・外傷』- 第2章「記憶」 | FUTURE KEY


徴候・記憶・外傷 | みすず書房
人間の根源的な能力ともいえる、「記憶」とは一体どのような意味を持つものなのだろうか。この巨大で困難な問題に、さまざまな領域を横断し、そしてまたさまざまな方法を駆使しながら迫った、精神科医・中井久夫の学問的到達点。そこには著者にとってさえまったく未知の地平がひらかれることになった…
www.msz.co.jp

『徴候・記憶・外傷』
中井久夫 (著), みすず書房, 2004年3月19日


気になった箇所の引用

「踏み越えによる犯罪」

 すべての犯罪が定義上「踏み越え」によるものであるとはいえ、最近の犯罪あるいは非行において、事故学的犯罪と対照的に、「踏み越え」の比重が非常に大きくなってきたという仮定のもとに考察を進める。
 「踏み越え」をやさしくする条件を挙げてみよう。

(中略)

(4) 侵犯が見逃され、放置され、処罰されないこと。犯罪の最大の防止策は速やかな発見と検挙である。ニューヨークの地下鉄でも、わが国の大学でも、落書きをただちに消すことによって、落書きだけでなく、さまざまな侵犯の低下をみている。

P314~315

 特殊な踏み越えもある。それは一般に、入りやすく出にくいワナのような構造を持っている。「不登校」から「ひきこもり」まで例は少なくない。そこからの「踏み越え」すなわち「踏み出し」がたいへん難しいのは、一般に定常状態というものは、そのまま続けてゆくのがいちばん安定していてエネルギーが要らない状態だからであろう。要するにはまりこんでしまうと、そこから抜けるのがたいへんである。男性に多い「ひきこもり」と女性に多い「摂食障害」のいずれもが、要するに、そこから出るという踏み越えが可能になる状態にどう持ってゆくかが困難な中心的問題である。斎藤環氏は千人以上の「ひきこもり」の人の中で自力で脱出できたのは四人であると語った(7)。多くの慢性病も似たワナ構造を持っているのではなかろうか。どうしてあのような些細なことが、踏み越えであったのか、という嘆きを多くの患者は共有している。

※(7) 斎藤環氏の「ひきこもり」論は多いが、私は氏から直接聞いた。

P320~321

 私たちのなかには破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。
 サリヴァンは、全青春期体験を、これらすべてに拮抗する人間的体験とした。今、全青春期は、あるとしても息も絶え絶えである。成人の幸福なパートナー体験もさまざまな形で脅かされている。わが国のこの半世紀においては、社会的上昇の努力が幸福と結びつくとされていたが、もとより、それは幻想であり、今は幻滅の時代である。行動化への踏み越えをどうするかが、今後ますます心理臨床を悩ます問題となりそうである。
 ウィニコットは、子どもの憎たらしさに耐えて、将来報いられると思えるのを「ほどよい母親」とした。大平健によれば(10)、今の「やさしさ」は「何もしないという思いやり」で、侵入されたくない気持ちと対になっている。子どもは「やさしい」ばかりでなく、すごい鳴き声を挙げて侵入する「やさしくない」存在でもある。その時の顔はいかにも憎々しい。昔の子守歌にも「寝る子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ」とあるとおりである。ウィニコットは、それを否認せずにわが子を世話できる母親をよしとしているのだが、今、いかなる意味でも「将来報いられる」期待をいうことができるだろうか。

※(10) 大平健『やさしさの精神病理』岩波新書、岩波書店、一九九五年。

P322~323
「自己コントロール」について

 私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもたりないぐらいである。しかし、私たちは「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。
 自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサいと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないだろうか。
 もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、知覚は信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性への権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのであるまいか。

P323~324

 「ケア」ということばに過敏反応を示す向きもある。一種の「歯の浮くような」甘さを感じられるのであろうが、適当な邦訳に苦しむところである。このことばは、二十世紀初頭、アメリカ近代医学の父サー・ウィリアム・オスラー以来「キュア」(治療)と対立した対語として用いられてきたが、インド=ヨーロッパ祖語に遡れば同一語であり、ラテン語の「キュア」に対してゲルマン系では「ケア」になったのである。欧米の辞典の語義解説が相互滲透的であるのも故なしとしない。本人の主体性を軸とする医療に移ってゆくに伴ってますます使われるようになるのではないか。
 「こころ」のほうは由緒ある大和ことばである。「からだ」に対立することばとして「精神」に代って用いられる傾向にある。「マインド」のよい訳語である。ついでに言えば、精神医学の対象を呼ぶことばには各国語によってずれがあり、フランス語では psychisme という新語が十九世紀末に発明されている(『エランベルジェ著作集』第三巻の末尾に付した私の「訳語考」に述べてある)。精神医学はもちろんのこと、広くは「医学」の対象を何と呼ぶべきかも難問であることをこの本の「医学・精神医学・精神療法は科学科」に少し述べておいた。

P395~396

 解離もおそらく、元来は病的というよりも生理的機構であろう。『不確かさのなかに――私の心理療法を求めて』(神田橋條治・滝口俊子対談、創元社)において神田橋は「解離を病的なものだと決めつけるのは私は嫌いだな。解離を見たら、ああ一所懸命にやっているんだな……ということで治療が開かれてゆく」と語っている。レイプの際に解離を起こすことも、その場の生命を救うためには合理目的であり、「ひとごと」にして済ますことは当面の苦痛をいくらか耐えやすくする。ただ、当面のための配慮しかしないのは、生命的なものの限界である。意識と記憶とを持つ人間ゆえの苦しみが後に残る。
 カーディナーを読む限り、戦争における外傷は一回限りの外傷に近い。反復的な外傷こそ人間の問題かもしれない。それは、しかし、人間が高級なためではない。社会環境の「人工的」ともいうべき拘束性にあるものであろう。サルも動物園の「サル山」という人工的な環境では硬直的な上下関係をつくるが、自然状態ではそれほどではないという。外傷性障害は、特に反復的な外傷は、そしておそらく慢性化も、すぐれて社会精神医学的問題ではあるまいか。それを念頭において予防とケアと治療とを考えてゆくのが今後の課題ではないかと今の私は考えている。

P398

 私が「ああそうだ」とその世界を生で感じたのは、犯罪被害死を遂げた人の家族たちとの会合である。犯罪被害者支援の集まりの後の夕食会であった。被害者家族たちの食卓には他の誰も座っていない。一席だけ空いているところに私は座った。
 その卓だけ明らかに何かが違っていた。新たに被害者になった人たちに対して長く被害者家族でありつづけていた人たちが話しかけていた。今のあなたがたは自分たちがとおってきた道の初めのほうにいる、時間だけが救いだ、被害者同士しかわかりあえない、などなど。
 それはしめやかな雰囲気などでは全然なかった。家族たちは大声で語り、笑い、ビールの杯を重ねた。それと語る内容との大きな開きが異様であった。それが呼吸に努力を要するほどの「空気の薄さ」を生んだ。隣の学者同士の談話が遠い遠いものに聞こえた。
 それは「基本的信頼」を失った痛々しい傷跡だった。ふつう、行きあう人間は何ごともなく行きあう。私たちの日常である。たいていはそれで済むのだが、それがいきなりそうでなくなった人たちである。それからその後に来るもの。世界全体ががらりと変わる。
 考えてみれば、私たちの「基本的信頼には:根拠がない。「そういう保証があるか」というのは、議論において相手の言葉を詰まらせる必殺の技である。神さえそういう保証はしない。私たちは、大地に「揺るがないもの」という基本的信頼を置いて道を歩き、家を建てている。このいわれない過程が覆ったのが震災被災者である。大西洋岸でのリスボンの地震が、この世はありうる世界の中の最善の世界であるという十八世紀西欧の楽観論哲学をくつがえしている。
 いくつかの無根拠な基本的信頼にもとづいて私たちは生きている。物質的世界の恒常性も、私たちの心身の健康も、社会的基盤の確実さも、人々の善意も、実際は、それは私たちがお互いに生きてゆくことを可能にしている過程に過ぎない。それが無根拠・無理由のいわれのない基本的信頼である。これを疑うことは「杞憂」といわれ、たいていはそれで済む。
 それは確率の問題である。そして、私たちの寿命の短かさが、重大な犯罪被害に遭う確率、自身、洪水、噴火などに遭う確率を少なくしている。一般に私たちの寿命が短いがために運が不平等なのだといえるだろう。無常観は一世にして多くを味わった戦乱の中世に生まれた。
 しかし、それは第三者の立場に立っての言説である。当人たちも、わが身に起こるまでは「ひとごと」であった。犯罪被害者で、「それまではひとごとと思っていたからバチが当たったのだ」と感じておられる方もあった。わが身に起こってはじめて、起こったことは取り消せず、失ったものと時間が呼び戻せないことを身を以て味わう。それは人生の不条理を知り、理不尽を知る「実存的」体験である。

P399~400

 外傷性障害の社会性は卑近なところにある。天災による障害は、忘却される時が危機であるとラファエルはいう。戦争神経症は、急性期に「温かい食事と休息」を三日間与えるだけで相当部分は回復するとカーディナーはいう。これは忘れられていないということのあかしである。日本人なら「入浴」を加えたいところである。災害救援者の心的外傷から犯罪被害者まで、一般にピア・カウンセリングが重視されるのも、同じ機微である。逆に、孤独でないことを実感し、体験をわかちあい、生活再建が緒につく時、経過は順調に向かう。重症化を防ぐ意味での「二次予防」は社会的方法が主力であると言ってよかろう。一九九五年一月の神戸において、全国からの救援が目に見える形で与えられたことは、強力な二次予防となった。おそらく、持続的被害の治療の困難性は、なによりもまず、社会の慢性的剝奪にある。なるほど、基本的信頼は無根拠であるが、基本的不信もまた無根拠である。外傷においては実存的側面と社会的側面とは相互に接近しているように思う。

P401~402

感想と思考

数日前、私はあなたのことがとても心配で、気がかりだった。過去の自分とどこか重なるような感覚に陥って(こちらの一方的な思い込みにすぎないのかもしれないけれど)、それでいて周りからの言葉は諸刃の剣のようにも聞こえて。きっとその言葉を発した彼に、一切の悪気はないのだと思う。ただ少しにぶかっただけ、気がつくことができなかっただけ……。

それで私はあなたに、声をかけてみようと思った。迷いがなかったといえば嘘になる、だってもしかするとこれは私のはやとちりで、単に私の傲慢さをあなたへひけらかすことのみになる可能性だっておおいにある、と思ったから。それにもしも彼に目をつけられてしまったりしたら、わたしはあなたとさえも関わることができなくなってしまうだろう、ということも明々白々だったから。だけど、それでも、やっぱり……と私は思った。

ウィットネス、になりたかった。「私はあなたを忘れていないよ」「あなた自身が・あなたのこころがそこに存在することを、私は知っているよ。置いてけぼりには決してしないよ」などという今の私のこの感情を、あなたにそっと手渡してみたかった。だから私はあなたに少しだけ、メッセージを送った。

 目撃する。目を凝らす。見つめる。見据える。見通す。見極める。見届ける。「見守る」ほどの力や度量は、いつまでももてないだろうが、それでいいのだ。
 英語では、目撃することも証人も「ウィットネス」という。目撃すること。証人になること。自分が直接ひどい目に遭ったわけではないから、その恐怖や緊張は、本人にも周囲にも気づかれないままのことが多いが、強い負荷を心身にかけるはずだ。子どものころのわたしも、どれほど怖かっただろうと、ようやくそのことに思いがいたる。けれども同時に、子どもが自分で感じるほど、子どもは無力ではないのかもしれない、ということにも気づく。起きたことを目に焼きつける子どもがいることで、救われる人間もかならずいるはずだから。

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』P16, 2022年9月10日, ちくま文庫

私には無論、あなたに何があったのかを知る由はない(いまのところは)。けれどべつにその「事実」を把握すること……それ自体は今の私にはさして重要ではないのだろう、とも思う。そちらはそちらの役割で、担ってくれている人がいるだろうから(と、信じたい)。今の私がいるべき場所は、もっとべつのところにあるのだと私は思う。

私は、あなたのことをもっと知りたい。それはあなたのこころに侵襲したいというわけではもちろんなくて、そうではなくて、あなたの隣に座ってみたい。傷つける大人は裏切る大人はこれからもきっとたくさんたくさんいるのだろうけれど(それ自体はとてもやるせないことなのだけれど)、でもすべての人間がそうなのではなくて、不器用にもあなたのこころを包んでみたいと思っている人だって、ちゃんと存在しているんだよと、いつかあなたに気づいてほしい。

なぜなら、私もそうやって同じものを、一歩先ゆくあの人この人にそっと手渡してもらってきたから。「大人になんかなりたくない」とずっと思っていた私に、こんな大人もいるんだよと体当たりしながら伝えてくれた、あの人のまなざしが忘れられないから。たくさんの優しさに手を引いてきてもらった私だから、だから今度はほんの少しだけ……さしのべてあげる側、にもなってみたいと思うから。


あなたの言うとおり、時間はかかるだろうけれど。それでもいつか「あなたの言葉」で、話すことのできる日がくるといい。きっと、必ず、くるといい。

私も頑張るね。あなたの言葉で、あなたと話してみたいから。

こんな感情は初めてだけれど、でも一方ではやはりどこかで、懐かしい気もしているんだな。


一緒に頑張ろうね。


そら / Sora

通信制高校に在籍中の18歳。 気に入った本や、日々の生活を通して感じたことなどを思いのままに綴ります。 趣味は読書、手芸、それに音楽を聴いたり歌ったりすることです :) I am Japanese, 18 years old and a homeschooler. Keep up with my daily life and journals!! Fav -> Reading, Handmade, Music, etc

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  • Post last modified:January 17, 2025
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