*Please note that this page may contain some affiliate links.
※当ブログでは、アフィリエイト広告(リンク)を利用しています。
“デカルト『方法序説』を読む”
谷川 多佳子 著, 岩波現代文庫, 2014年6月17日
どんな本?
デカルトが発表した『方法序説』を読むにあたって、その背景やさまざまな解釈などを講じた入門書。デカルトがどのような生涯をおくったのかや『方法序説』の魅力、また肯定側・否定側の両者の意見の内容などについて理解することができる。
気になった箇所
デカルト自身は、絵画やイメージについては否定的でした。理性(あるいは知性)そのものではないというのです。でもヴァレリーは、ハルスとデカルトはどのようなコミュニケーションがあったのかわからないけれど、この肖像画においてデカルトはその素晴らしい面を示している、デカルトは書斎に籠る哲学者ではないのであり、それがこの絵にあらわれている、というのです。そこでヴァレリーはレンブラントの絵と比較します。レンブラントにも、アリストテレスはじめいくつかの哲学者を描いた作品があるが、レンブラントの場合は、みな書斎の中に籠ってしまう。レンブラントの描く哲学者は書斎の中の哲学者で、部屋に閉じ込められているかのようだ。けれどもハルスの描いたデカルトはまったく違う。アムステルダムの運河を歩いたり、さまざまなオランダの都市を見たり、港で考えをめぐらしたりするデカルトだ。哲学者は内面に向かうけれども、ときには外にも向かう、その両方がある。内側の世界から外の世界へ、大きくいえば、宇宙の体系から、町や運河の出来事へと移ることができる、そのような精神であり、そして、それは稀有なことなのだ。デカルトはレンブラントの描くような書斎の哲学者ではない。自分の内側と外側を常に往復できる、移っていける、そういうデカルトの素晴らしさがこの絵にあらわれている。デカルトはハルスに出会えて本当によかったのだ、とヴァレリーはいうのです。
P34
デカルトの五十年後に生まれたライプニッソ(一六四六 ー 一七一六)は、異なった視点を持って文系の学問に位置を与えます。ライプニッソはデカルト以上に数学や自然科学に多大な業績を残し、数学や力学の業績は有名です。さらに地質学や生命科学、記号学など広大な領域で仕事をします。そうして合理的な哲学を体系化するのですが、デカルトと違って、文系の学問を切り捨てることはしない。
P69~70
文系の学問をデカルトは、確実でない、有用でない、として切り捨てましたが、ライプニッソは初め法律を学び、歴史学や言語学にも強い関心をもち、いわゆるリベラルアーツの部門に学問としての位置を与えます。デカルトの良識あるいは理性は、真か偽かではっきりと割り切ってしまうけれど、ライプニッソにはその間に段階を設けて、確実なもの、それから蓋然的なものというように階層的、重層的な視点がある。文系の学問も、確実ではないが蓋然的であると、段階的な尺度でみとめて位置を与えていく。またライプニッソはスコラ学を残します。デカルトは過去の学問(スコラや人文学)を切断して新しい学問の方法と哲学をつくるのですが、ライプニッソは倫理学や形而上学にスコラ学を取り入れ、過去の哲学との連続を示します。
メルロ=ポンティは、キネステーゼや、身体性、受動性、生活世界などをめぐるフッサールの後期の思索の影響を受けて、さらに独自の問題意識を、初期の『知覚の現象学』(一九四五年)に結実させました。メルロ=ポンティがめざしたのは、わたしたちの身体をとおして「生きられた世界」を記述することです。二元論は、身体を、内面なき諸部分の総和、とし、精神にとっての透明な対象としてしまう。これに対して、「自己の身体の経験」がわたしたちに開示するものは、このような二元論ではない。身体は、わたしたちが世界のなかに存在していることを保証する媒介であり、世界にたいするあらゆる運動、そして思惟を可能にする。そしてわたしたちはあらゆる分析に先立って、世界と身体において絡み合い、そこに住み込んでいる、というのです。
P164~165
自己の身体(あるいは、生きられる身体)の存在の仕方は、両義的です。たとえば、ある対象に触れているとき、同時に左手から触れられる右手。触れるものと触れられるものとの、機能分離が反転します。さらに、左手と右手、そして身体の諸部分が、相互の中に「包み込まれている」ことが、空間知覚の例で示されます。心理学や精神病理学、大脳生理学などの具体的な症例や研究成果を、現象学の側からとらえ、また逆にそこから現象学や哲学をとらえ返し、豊かな現実性をもたせています。ゲシュタルト心理学における線分の知覚、物理的には切断されてしまった手足に痛みを感じる幻影肢、……などデカルト的な機械論からは説明できない症例や事例をあげ、二元論的判断が現実の人間身体、知覚において誤ったもの(あるいは少なくとも、一面的)となることを示します。そしてデカルト的なコギトに対しても、身体は、「わたしは考える」という人称化されたコギトに先立つものであり、それを統合するような「無言のコギト」なのです。
感想と思考
いつものように、ここへ「感想と思考」を書きたい……のだけれど。実はこの投稿、2023年の10月に「気になった箇所の引用」を書いたきり下書きに放置していたものなのだ。^^;
今の私がいだいた感想を書くのもな(臨場感が失われてしまいそう(?)な気がする、っていう理由。笑)……と思うので、今回はもうこのまま公開してしまうことにする。
この本は今も自分の手元にあるので、またいつか気が向いたときにでも読み返してみようかな~。(^^)/