読書記録 -『生き延びるためのラカン』

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筑摩書房 生き延びるためのラカン / 斎藤 環 著
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『生き延びるためのラカン』
斎藤 環 (著), ちくま文庫, 2012年2月10日


図書館本。以前『よくわかる森田療法』という本を読んだときに、「読書メーター」のその本の感想ページに「『森田療法』って、『現代ラカン派』の実践じゃん!」と書かれていた方がいらっしゃった。それを読んで初めて、「『ラカン』って誰?どんな人?」と興味を持った私。

文學界二月号から「森田療法」を知ったが、もうこれ、ほとんど現代ラカン派の実践じゃん。もはや現代ラカン派のやることはないのか? これでいいのか?

まあ、あえて口を突っ込むとしたら、「バカっぽさ」がないのがアレかも。ラカンはもう少し「ベラボウさ」について言っている(気がする)。

– 2022/01/17

『こころのクスリBOOKS よくわかる森田療法 心の自然治癒力を高める』|感想・レビュー・試し読み – 読書メーター (bookmeter.com)

そこで「ラカン」についての何かよい入門書はないか……と探した挙句、まずはこの本を借りて読んでみることにしたのだ。

どんな本?

「ラカン」、また「精神分析」についての入門書。ラカンが唱えた思想や考え方・手法などについて、精神科医・また医学博士である斎藤環先生が「ベタな語り口」で軽快に解説してくれる。

ストーカー、リストカット、ひきこもり、PTSD、おたくと腐女子、フェティシズム……
「現代の社会は、なんだかラカンの言ったことが、それこそベタな感じで現実になってきている気がする」。電車内の携帯電話の不快なわけは?精神病とはどういう事態か?
こうした問いにラカンはどう答えてくれるのか。幻想と現実がどんどん接近しているこの世界で、できるだけリアルに生き延びるためのラカン解説書にして精神分析入門。
解説 中島義道

裏表紙より

気になった箇所の引用と、考えたこと

1つ目: 「鏡像段階」の概念について

 しかし、鏡像段階には大きな「罠」がひそんでいる。いうまでもなく、鏡に映った像はニセモノだ。しかし人間は、鏡に映った像、すなわち幻想の力を借りなければ、そもそも「自分」であることができない。これはイメージというものに対して、大きな「借り」ができたことを意味している。
 あたりまえだけど、人間は自分自身の眼で自分を直接に眺めることができない。かわりに、左右の反転した鏡像、つまりはウソの、他者の姿としてしか自分を眺めることができない。これを精神分析では「主体は自我を鏡像の中に疎外する」という言い方をする。自分の姿を理解するために鏡の力を借りている限り、人間はけっして「真の自分の姿」にたどりつくことはない、というほどの意味だ。
 左右が反転しているとはいえ、人間の体は基本的に左右対称に近いんだから、別にそんな大げさに考えなくとも、という意見もあるかもしれない。でもね、イメージの左右が逆になるっていうのは、けっこう大変なことだよ。そのことを一番手っ取り早く確認するには、なにか文字の書かれたものを持って、鏡をのぞき込んでみるといい。そこに映るのは、見なれたいつもの自分の顔だけど、一緒に映っている文字は、なんだか得体の知れない記号になってしまっているはずだ。左右反転しただけなのに、ほとんど読めないくらいに。このギャップの大きさこそが、人間が鏡によってだまされている度合いそのものなんだね。
 もちろん、こうした「疎外」や「ウソ」は、ほとんど自覚されることはない。このため人間は、自分自身についても誤解に陥ってしまいがちだ。とりわけ自分の欲望については、それが他者の欲望の反映でしかないことなんかも、しばしば忘れられている。でも、もちろん悪いことばかりじゃない。

P89~90

この部分を読んだとき私は、幼い頃によく考えていた「あること」を思い出した。それは「私は他の誰のことも『この目』で見ることができるのに、『自分の顔』だけはどうしたって直接見ることができないんだな……。鏡を通してしか見られない。へんだしなんだかちょっと悲しい気もする、不思議だな」というもの。こんなことをよく、洗面所の鏡の前に立って思っていたことを覚えている。

「ものごとのイメージをつかむ」ということ。「誤解」に陥らずに、自分自身やその欲望のありかについて冷静に考えてみる、ということ。きっとそれらはむずかしいことだし、意識しておかないとすぐに忘れてしまうものの見方なのだろう。この文章を通して、改めてそう思った。

2つ目: 「語りうる・えないトラウマ」について

 それはともかく、トラウマの現実性という話は、僕らの臨床現場での経験からも、かなりうなずける指摘だ。僕も日常的に「ひきこもり」だけじゃなくて、PTSDの患者さんを診察する機会がある。そういう経験から言いうることは、トラウマ的な体験にもいろんな程度があるということ。そして、その程度というのは、その体験を語りうるか否かで、ある程度判断できるように思う。たとえば「私はこんなトラウマで苦しんでいます」と、とっても具体的かつ詳細に語る人がいる。でも、こういう「語ることができるトラウマ」って、比較的軽いことが多いんだよね。語っているうちにどうでもよくなってくることさえある。問題なのは、語れないトラウマ。どうしても思い出せないという古典的な「抑圧」タイプから、それについて話そうとしただけでパニックや錯乱状態になってしまうようなPTSDタイプまであるけれど、重いトラウマ体験っていうのは、どうしても簡単には語れるもんじゃない。それを語れるようになるまでうまく導くのが、治療者の仕事ということになる。

P191~192

この部分の考えに、私はおおいに納得した。実際に私もその通りだと思うし(自分自身の体験に当てはめてもまるっきりそうだと感じる)、以前べつの本『誕生日を知らない女の子』のなかでも、同じような内容の文章に出会ったこともある(残念ながらいまはその本が手元にないので、引用を書くことはできないのだけれど……。また折をみてこっそりとここへ、追記しておくことにしようっと)。

誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち/黒川祥子 | 集英社 ― SHUEISHA ―
心の傷と闘う子どもたちの現実と、再生への希望。“お化けの声”が聞こえてくる美由。「カーテンのお部屋」に何時間も引きこもる雅人。家族を知らず、周囲はすべて敵だった拓海。どんなに傷ついても、実母のもとに帰りたいと願う明日香。「子どもを殺してしまうかもしれない」と虐待の連鎖に苦しむ沙織。そして、彼らに寄り添い、再生へと導く医師や里親たち。家族とは何か!? 生きるとは何か!? 人間の可能性を見つめた感動の記録。
www.shueisha.co.jp


向き合い、信頼関係をきずき、正面からその人やこころと向き合うこと。そんな丁寧な作業を通してこそ、「語りえないトラウマ」は「語りうるトラウマ」へと変化していくのだろうな……と思った。

3つ目: 「つなぎとめるもの」について

 これが精神病の場合には、さっきも言ったように、四つめの輪っかがうまくはたらかなくなる。これを父の名の排除、なんて言うこともあるけれど、もう意味はわかるよね。そこで精神病患者は、父の名にかわるような症状を作り出して、輪っかどうしをつなぎとめようとする。それが幻覚だったり妄想だったりするというのがラカンの説明になるわけだ。ただし、前にも言ったように、ラカンの理論は精神病については少し眉唾、というのが臨床医である僕の立場だ。「ボロメオの輪」とか言い出したら、そりゃそういう結論になるだろうなあ、くらいに聞いておいてほしい。

P208~209

これも以前、別の本のなかで同じような内容に出会ったことがある。

 それまでは、自分だけに向けられた意味がありそうだけど、どんな意味なのかはよくわかっていません。なんだか意味深なのだけどその意味が宙吊りにされている。もどかしい状態です。ですが、この段階では一挙に、はっきりと「わかった!」という確信が起こるんです。こういう体験を「妄想知覚」と呼んでいます。
 こんなことが起こるのは、先に話した、幼少期から思春期にかけて「しっかりした自分がなかった」ということと関係しています。もともと自分が安心して世界のなかに住むことができるようなベースキャンプがなかったからこそ、思春期くらいには自分が消えてしまうのではないかと思ってしまうようになる。そして、自分が消えるということは、世界も消えてしまうということです。
 そんななかで、「わかった!」という確信がはじめて得られるのが、妄想知覚です。つまり、妄想知覚は、世界が解体していく危機の最後にたどり着いた、たったひとつの手がかりなのです。妄想知覚は、「統合失調症」という病気の発病がはっきりする症状ですから、ある意味では病気が進んでいるとも言えますが、別の意味では、回復の第一歩でもあるんです。

(中略)

 比喩的に言えば、「解体型」は、世界が崩れていく際に足場をもてないので、どんどん支離滅裂になっていくという感じです。それに対して「妄想型」は、妄想知覚があることによって、そこを足場にしてなんとか回復の糸口をつくれるようになる。むしろ、人生においてそういう足場が初めてできた、と言うこともできると思います。
 このように考えると、「妄想知覚」もまた、1つの「未来の先取り」であることがわかります。自分の住む世界のすべてが崩れそうになっているときに、一瞬で何かをひらめいて、それを足場にすれば、すべてのことがすっかり整理されて、安心してくらせるようになるはずだ、ということですから。それは、崩れかけた現在に対して、回復した未来を先取りしようとすることであるとも言えるのです。

(中略)

 「統合失調症」をたんに病気として見ると、妄想は症状ですから、できるだけ早く取り除いたほうがよいということになります。しかし、本人にとっては、妄想は回復の過程です。言い換えれば、妄想がなくなってしまったら、「解体型」のように心が解体していってしまうのです。ですから、妄想は、いつでも完全に取り除けばいい、というわけではありません。

『中学生の質問箱 心の病気ってなんだろう?』P94~97, 松本卓也 (著), 平凡社, 2019年7月17日

症状のない人たち、いわゆる「健康な状態の人たち」から見ればそれら……例えば幻覚だったり妄想だったり、はときに奇異なものとして映るのかもしれない。でも見方を変えて考えてみると、その本人はその「症状」を作りだすことによって、なんとかこの世界にとどまろうと自ら努力しているのかもしれない。そんなふうに考えることもできる。

「なんだか『ふつう』と違うから変だ!」と安直に決めつけるのではなくて「もしかするとこうした事情があるのかも?」と、一歩立ち止まって考えてあげられる人に私もなりたい。なれたらいい。

4つ目:「アンナ・Oとフロイト」について

 Lecture 13 でちょっとふれた、「アンナ・O」っていう症例の話、覚えているかな。フロイトが精神分析を創始するきっかけとなったのは、彼女の存在が大きかったんだけど、彼女の治療の時点で、すでに転移は大いに問題になっていたんだよね。最初の治療者だったブロイアーに転移した彼女は、想像妊娠したりとか、かなりいろんな症状を呈した。もともとはブロイアーの恋愛性の逆転移(※「転移」とは逆に、治療者が患者に対していだく感情全般を指す)感情が原因でもあったんだけど、これですっかり引いてしまったブロイアー、奥さんを連れて子作り旅行に出掛けてしまった。要するに、どうしたらいいかわからなくなって、逃げちゃったわけだ。
(※実は「アンナ・O」の症例については、フロイトが書いたエピソードがすべてウソだったと細かく検証した本が出ていたりする。僕がここで紹介しているのは、あくまでもフロイトによる研究のまとめ、と理解しておいてほしい。)

P220~221

「アンナ・O」の症例のくだりは、現在もちょこちょこと読み進めている本『心的外傷と回復 (ジュディス・ハーマン 著)』のなかで目にしたことが既にあった。だからこの箇所を読んだとき私は「えっそうだったの、ウソだったの?!」と、かなり驚いてしまった(嘘か真か……どちらが本当なのかは、まだ私には分からないけれど)。

そこで少し調べてみると、みすず書房から『フロイトとアンナ・O 最初の精神分析は失敗したのか』なーんて本が刊行されていることがわかった。↓

フロイトとアンナ・O | 最初の精神分析は失敗したのか | みすず書房
「治療中断の一年後、ブロイアーはフロイトに、彼女はすっかり錯乱している、彼女は死んだほうがよいのではないか、そうすれば苦しみから解放されるのにとさえ思う、と打ち明けた」ヨーゼフ・ブロイアーとジークムント・フロイトの『ヒステリー研究』(1895)において提示された「症例アンナ・O…
www.msz.co.jp


斎藤先生がここで思い浮かべられている本がはたしてこれなのかどうか……は定かではないけれど、でも興味をひかれる内容であるにはある。
またいつか機会があればぜひ、手に取って読んでみたいな。

5つ目:「教育するということ」について

 ちょっと脱線するけどいいかな?僕は基本的に、人間が人間を教育することなんてできないと考えている。人が人を変えるようにみえるのは、変わりたい人間と変えたい人間がたまたま運よく出会った時くらいのものだ。
 あの地動説のガリレオがこんなことを言っている。「他人になにかを教えることなどできない。できるのは、自分で発見することを助けるのみだ」とね。これなんか、すごくよくわかるな。このガリレオの言葉は、教育はおろか、転移というものの本質にすら射程が届いている。「発見を助ける」ってことは、発見したいという欲望、つまり「知への欲望」を、転移を通じて伝えることにほかならないからだ。
 思うに、これってあらゆる「教育」の基本なんじゃないだろうか。のぞましい教育っていうのは、ただ知識や情報を子どもに詰め込むことじゃない。すぐれた教育者は、ほどよい転移関係の中で、相手に「学ぶ姿勢」(これもまた「知への欲望」のひとつだ)を伝染させることができる人のことだ。
 よく、「算数や社会が将来なんの役に立つの?」という疑問を口にしたがる人がいる。その気持ちはわかるけど、でも肝心なのは、知識そのものじゃないんだ。人間の心っていうのは、自然体のままでは、しばしばかたくななものになりがちだ。学校の勉強というのは、子どもたちの堅い蕾のような心に、いろんな形の好奇心(=「知への欲望」)をインストールして、柔軟なものにするところに意味がある。だから、本当は学校で習ったことなんて、内容は全部忘れたっていいんだ。

P246~247

実は上記の↑箇所、先日書いたとあるレポート内で引用させていただいた……!そのレポートのテーマはざっくりと言うと「ソクラテス」についてだったのだけれど、どうもこの箇所とソクラテスの「対話を重視する姿勢」とがなんというか、共通する部分を持っているようにおおいに感じて。

「答えは『教える側』ではなくて『教わる側』にある……ということを、教育者側がつよく信じてあげたうえで生徒に接するということ」。たぶんこれって、いつの時代でも大切にしなければいけない考え方なのだろうな、と私は思う。

げんにガリレオとソクラテスだって、生きた時代は大きく離れている。それなのに、持っている思想はこんなにも重なっている。面白いな、と思う。

6つ目:「わからない」ということについて

 僕がある理論の信頼性をはかる尺度はこうだ。「わかればわかるほどわからない、、、、、、、、、、、、、、」。
 どういうことかって?
 ラカンがわかりにくいのはもうよくわかったよね。でも、一気にすべてがわからないにしても、ものすごく腑に落ちる部分もあったりして、それはそれで魅力的だ。だんだん読み込んでいけば、もっとわかる部分がふえてくる。ただ、「ラカンがわかる」っていうのはちょっと奇妙な現象でね、知れば知るほど謎が増えていくような経験でもあるんだよ。もちろんそれは、あの謎めいた語り口のせいでもあるんだけどね。
 ラカンがわかるってことは、自分にとっての世界のありようが変わる経験でもある。ただ、それは必ずしも「世界のすべてがわかった!」みたいな意味じゃない。「この世界は、こんなにも謎に満ちていたのか!」という、新鮮な驚きの経験なんだ。
 見通しのきかない夜の闇を一人で歩くのは危険だし怖いよね。でも、もし暗視ゴーグルがあれば、かなりましにはなるだろう。もちろんゴーグルをつけても、すべてがみえるようにはならない。でも、かすかに明るい所と、本当に暗い所の区別はつくようになる。もうわかったよね。ラカン理論はこのゴーグルみたいなものだ。見通しはよくしてくれるけれど、完璧な地図をくれるわけでもない。ただ、謎のありかを発見しやすくはしてくれるというわけだ。

P255

ここを読んだとき私は「自分だけじゃなかったんだ……。」と、思わずほっとため息をついてしまった。というのも私、この本を読んでいる最中に何度も「わからない。ラカンの考え、ぜんっぜんわからない。」と、ひそかに思っていたからだ。

けれどこの部分を読んで、少しすくわれた気がした。「最初からすべてを理解しきらなくたっていい、いやむしろそんなこと、できるはずがない。できないからこそいい。」と思ってみること。わりと完璧主義的な思考のクセがある(?)私にとって、これはすっごく新たな視点!だった。

これからは今までよりももうすこし肩の力を抜きながら、いろいろなものごとを楽しめるようになれるといいなあ。

おしまい。

「ラカン」や「精神分析」について書かれた本を読むのは、実は今回が初めてだった。まだまだ「わからない」と感じることばかりだけど……。でもその「わからなさ」を楽しめるのも、ある意味初心者の特権かも?なんてことも思ったりする。

これからもまた少しずつ、いろいろな考え方にふれていきたい。

そら / Sora

通信制高校に在籍中の17歳。 気に入った本や、日々の生活を通して感じたことなどを思いのままに綴ります。 趣味は読書、手芸、それに音楽を聴いたり歌ったりすることです :) I am Japanese, 17 years old and a homeschooler. Keep up with my daily life and journals!! Fav -> Reading, Handmade, Music, etc

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  • Post last modified:July 16, 2024
  • Post category:Books