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『地の糧』
ジッド (著), 今日出海 (訳), 新潮文庫, 1952年3月31日 (新版:2023年4月5日)
感想と思考
外に出たい。じぶんのこの足で、しっかと大地をふみしめてみたい。目に映るものを見てみたい。というか、旅に出たい。近場でもいいから、ただ数日間でよいから……。この本の初読の感想は、そんなだった。
読みはじめてすぐにわたしは、「私」がすぐそばに、自分の目前にいてくれて語りかけてくれているかのような感覚に陥った(ちょうど「私」が作中で、まだ少年である「彼」にたいして「野原の素晴らしさの前に彼の眼を開いてやった」みたいに)。
日が暮れると、見知らぬ村のことだが、昼間のうちは外に散らばっていた人々が再び寄り集うて家庭の団欒をとるのを見た。父親は仕事に疲れて帰ってきた。子供たちは学校から戻ってきた。家の戸は、しばしの間、光と熱と笑いを迎え入れるために半ば開かれていたが、夜になるのでしめられてしまった。流浪する一切のものは入ることができなかった、戸外に震える風さえも。——家族!私はお前も嫌う!鎖された家庭、しめきった扉、幸福の猜み深い占有。——ときとして、夜の闇にまぎれては、窓硝子に凭れたまま長い間或る家の風習を眺め入っていた。父親は洋燈の傍にいた。母親は縫物をしていた。祖父の場所は空いていた。——子供は父親の傍で勉強をしていた。——そして私の心は、私と一緒に子供を途上に連れ出したい欲求でいっぱいになった。
P76~77
その翌日、彼が学校から出てくるところを見かけた。その翌々日私は彼に話しかけた。四日の後彼は一切を棄てて私についてきた。私は野原の素晴らしさの前に彼の眼を開いてやった。彼は野原が彼のために展かれているということを悟った。そこで、彼の魂がいっそう放浪性を帯びるように、そしてやがては新しいものになるように――それから私とさえ別れて、みずからの孤独を知るようにと、教えてやった。
わたしは今、「私」にとってのナタナエルになっているのだな。読み進めるにつれてそんな思いを一段とつよくしながら、わたしはなおもページを繰った。
わたしはこの15~18歳頃の3年間のほとんどを、蛹になって過ごした。そんなこともあってかこの本の前半部分 — 「私」がすこしずつ外の世界の眩しさとあたたかさによって目を覚ましはじめるとき– に描かれる情景であり心象であり、にはどうしてもどこか、じぶんに通ずるものを感じずにはいられなかった。「私」もかつてのわたしのように精神的な諸々の要因からながく床に臥していた時期があったのだろうか、けれどやはりどこかで「外の世界」へ心をひらくことへの憧れをふたたび取り戻し、まばゆい光(もちろんその明るさの中にはきっと、暗闇も影もたくさん存在してはいるのだろうけれど)のもとへ飛び込んでみることを決意したのだろうか、と。そんなふうに「私」を思わずには、いられなかった。(だから最後に付けられていた「一九二七年版の序」の部分を読んだときには思わず「やっぱり……。」と唸ってしまったくらいだ。ああわたしの感覚は決してへんではなかったのだな……、と。)
(一)地の糧は病人の書ではなくとも、少なくとも回復期の患者の、平癒したものの――かつて病気だったものの書である。この書中を流れる抒情趣味には、危うく失いかけた或るものとして人生を抱きしめる者の過激さがある。
P208
語りたい箇所はたくさんある。いつまでもいつまでも、必ず忘れずにいて自分の心に留めておきたいと思った箇所も、ほんとうに数え切れないくらいある。
けれど、と私は思い直す。そうすることはどこか後ろめたさ、また背徳感を伴うものであったりもするから。そうやってこの本をいつまでもわたしのそばへ携えようとしてしまうと、やはりそれは「私」の意に反してしまうような気がして。あなたがわたしに語りかけてくれたその思いをもしも、わたしに受け取ることができているのなら。今のわたしがすべきことは、私自身の路がしめすその先を、素直に見つめて辿ってみようとすること……ただそれのみなのではないか、と。
……私の歩いている路は私の路であり、辿るべき路を歩いているのだと私は信じている。私はいわゆる信仰ともいうべき宏大な信頼を常に習慣のようにわが身離さず保っている、それが固い誓いの上に立っているものであるならば。
P170~171
年末年始、そして新年のあの独特の雰囲気が私は(自身の記憶にかんすることもあいまって)いつも、どこかものすごく苦手だった。だから「年の変わり目だから」「節目だから」などという思いから、ものごとに意味を見出してみたり何かを区切ってみたりということはべつに、したいともなんとも(現在のわたしは)思わない。……だけど。
それでも、あなたには、「私」には、『地の糧』には。ほかのいつでもない「今」という時間に。
出逢えて、よかった。あなたに。
It was as if the voice from you sympathized and echoed through me, “I’ll be next to over”…,
「先に行って待ってるね」っていうあなたからのその声が、たしかに聞こえた気がしたんだよ。私には、ね。
Merci beaucoup.
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p.s.
とりあえず、今いちばん行ってみたい場所は海外だと「マルタ」かな。あかるい潮風と空気に吹かれてみたい。あとは国内なら、京都。京の街につつまれてみたいんだ。
それからこの『地の糧』、原書で読んだら響くんだろうな……ってものすごく思う。いつか必ず、フランス語版でジッドの筆致そのものを読むんだから。
そのためにも、フランス語学習もまた頑張ろっと。