読書記録 -『臨床瑣談』

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臨床瑣談 | みすず書房
「〈臨床瑣談〉とは、臨床経験で味わったちょっとした物語というほどの意味である。今のところ、主に精神科以外のことを書こうとしている」本書は、精神科医としての長年の経験をとおして、専門非専門にかかわりなく、日本の医学や病院やその周辺について「これだけは伝えておきたい」という姿勢で書…
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中井久夫『臨床瑣談』 | トピックス : みすず書房
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『臨床瑣談』
中井 久夫 (著), みすず書房, 2008年8月22日


どんな本?

精神科医として長年臨床に携わってこられた著者・中井久夫先生が、自身の記憶をもとに “臨床経験で味わったちょっとした物語(「まえがき」より)” を綴られた本。

いままでの自分の考えがはっと覆されるような感覚に陥った部分や、もやもやと抱いていた感情があざやかに言語化されていた部分など……。これからも心に留めておきたいと思える箇所がたくさん見つかった1冊だった。

気になった箇所の引用

 ここで、診断とはレッテル貼りだという、ありうる誤解のために一言しておこう。T・S・エリオットは猫についての戯詩(邦訳、北村太郎『ふしぎ猫マキャヴィティ』)で、猫には三つの名があるという。世間通用の名、その猫独自の名、そして猫世界の名である。診断にも、それに似た三種がある。
 「世間通用の猫の名」とは診断書や保険申請に書く診断に当るだろう。ここで言っておかねばならないのは、医師が「求められれば絶対に拒否できない」診断書は、その厳しい規定ゆえに、書き方には自由がある。たとえば、現診断体系の病名を書かねばならぬということはないと私は了解している。会社に提出する診断書には、人事の人にわかるような平易で具体的な文章で書くべきである。「貴社における本人の労働を医師の私は想像できませんので、とりあえず試みに」という前置きを復帰診断書の冒頭に置いたりした。
 第二の「その猫独自の名」とは「ボンバルディーナ」とか「ガンビーキャット」という名である(飼い主の名が加わって「誰さんちの何とか猫」に相当するか)。人柄や環境や薬物のききめを含む、その患者のための、その患者限りの診断だろう。むしろ見立てというべきか。これも精神科医のための仕事ではあるが、患者と共有できる部分が大きいものだと私は思う。
 最後は「猫世界の名」である。患者にも医師に語らない自己判断があるはずだ。それは長い長い物語であったり、一つの強烈な実感やイメージであったりするだろう。この精神科医にはふつううかがい知れない何かは病いの核かもしれないが、回復の出発点にもなりうると私は思う。少なくとも、それが存在するものと仮定して尊重する必要があるだろう。ずっと後になって「別世界から戻った」「悪夢のようなところを通り抜けた」とふっと漏らすのを聞くことがある。
 患者が、その独自の体験を精神科の用語で置き換えるのを、シュルテは「精神医学化された(psychiatrisiert)」と形容した。『サリヴァンの精神科セミナー』の対象となった患者が代表例である。そこでは、担当医は精神医学用語を使うのを禁止して患者と争うが、私ならむしろ、精神科医がそのつど、言い直すことを勧める。「あ、まぼろしの声?」とか。それが思いつかなければ「きみのいう幻聴」と「きみのことば」であることを強調するだけでもよい。患者のアイデンティティ(自己規定)が「何々病」「何々症」という精神科の病名や症状名になるのは悲劇的である。患者自身の自己評価に加わることが悲劇的なのである。「私は何々症です」には「きみは何々症そのものかね」「はぁ」「何々症が服を着て歩いているのかね」と応対したい。精神科医は、症状を無視するのではないが、面接の焦点は人柄に置き続ける努力が重要だろう。落語には、蛇のなめる草をたずさえてソバの食べ比べに出た人が人間の形をしたソバになってしまった話がある。人をとかす草だったのである。患者は人間の形をした何々症ではない。

P15~17

 ただ、健康を謳歌してきた人が有利とは限らない。そういう人にかなり発達したガンが突然発見されることがある。これは、健康がガン細胞かガンによる身体変化を圧倒して、長い間抑え込んでいるとも考えられる。あるいは、体の警報が意識に上らない場合、つまり警報装置がさびついている場合もあるかもしれない。幼い時から病気がちの人で八十、九十の高齢に達する人があるのは、何かおかしいという身体の感覚が常時働いているからではないだろうか。
 この感覚は漠然としているが、あながち否定してよいものではない。医師に診てもらって何でもないといわれるのが恥ずかしいという感覚は日本人にはある。しかし、何でもないというのはほんとうは難しい。そして、問診がうまい医師ばかりではない。
 人間ドックは調べたその日から過去のデータになる。日常で頼りになるのは「いつもと違うぞ」という感覚と、体重と、最近のストレスフルな事件の密度である。体重が一定ということは身体のダイナミックなバランスがうまく働いているということである。ストレスフルな事件は点数化されていて、配偶者との死別がもっとも大きく、離婚は結婚の一・五倍であるという表がある。また、事件と事件が近接しているほど、ストレスの度が高くなるのは、体制を立て直す以前に次のパンチを受けるボクサーと同じである。

P87

 なお、麻酔医が前日に患者を訪問するのがよい病院である。これは精神安定に大いに貢献する。神戸大学麻酔科の故・岩井誠三教授によれば「私は大丈夫です。科学を信じています」ときっぱりいう人のほうが不安が強いという。よい麻酔医は麻酔前夜の患者との会話に長けている。岩井教授は達人であった。

P90

 治療法をできるだけ自分に試してみることは私が医師になる前からの習慣である。私は小学生から自分で顔のできものなどを切開してきた。

P116~117

感想と思考

「自分の言葉で語る」ということ。これはさまざまな人々とかかわり合いながら生きていくうえで、とても重要なことなのだと私は思う。他者が作った枠組みにどうにか自分を当てはめることは一見簡単そうに見えるけれど、きっとどこかで「齟齬」や「ひずみ」がうまれてしまう。だからこそ不器用でも、稚拙でもいい、「自分自身の言葉」で思いを紡ぐことが何よりも大切なのだろうな、と。


本書の

「私は何々症です」には「きみは何々症そのものかね」「はぁ」「何々症が服を着て歩いているのかね」と応対したい。

P17

の部分を読んだとき、私はものすごく腑に落ちたような気がした。「診断名」というそのカテゴリー化されたものは、あくまでも「他の人間」が作ったものだ。もちろんこの一覧表が無意味だというつもりはさらさらないし、社会のなかで果たしている意義もおおいにあるとは思う(ちなみに引用箇所の言葉を借りると、「世間通用の名」という部分がその例にあたる)。けれどやはりその名称はそれ以上でもそれ以下でもなくて、必ずしも「自分自身」に最適化されたものではない。


そういえば、とふと思い出したことがある。かの有名な哲学者・ウィトゲンシュタインがのこした思考実験に、「箱の中のカブトムシ」というものがある。

もう少しこの主張をイメージしやすいように彼が提案したカブトムシの思考実験というものを見てみましょう *4

ここに複数人の人がいて、彼らはそれぞれ箱を持っています。箱の中には私たちが「カブトムシ」と呼ぶものが入っています。しかし、彼らはそれを互いに覗き見ることができません。

彼らはそれぞれ「自分の箱に入っているのはカブトムシだ」と確信していますが、自分の箱のそれと、他者の箱に入っているそれが同じ「カブトムシ」なのかはどこまで行ってもわかりません。

例えばAさんが「ツノがあって黒い」と言ったとしてもBさんの箱には(Bさんがカブトムシだと思っている)クワガタが入っているかもしれないし、Cさんの箱にはカブトムシの絵が入っているかもしれません。もっと言えば、Dさんの箱には全く何も入っておらず、Dさんはその何もない空間を「ツノがあって黒いカブトムシ」だと認識しているかもしれないのです。

*4『哲学探究』 鬼界彰夫訳 講談社P212 293章

『私的言語論と規則のパラドクス 前編(カブトムシの思考実験)』に関する動画のテキスト版|哲学チャンネル (note.com)

内容を簡単にまとめると、要は「表現する言葉はみな同じ『カブトムシ』というものでも、その一人ひとりが想像している対象(物)は異なったすがたをしているかもしれない。したがって『自分だけの内的な感覚』を『言語』というもので完全に表現することは、そもそも不可能なのである」というものだ(おそらく。私の解釈が間違っていたらごめんなさい……)。私はこのウィトゲンシュタインの説いた思想と中井先生が書いておられる内容とに、どこか通ずる部分があるように感じてならないのだ。


「既存のもの」に身をゆだねることは、確かに楽だ。舗装されていない路地裏よりも踏み固められた表通りのほうが歩きやすいのと同じように、既存のものに頼ることほど手軽で疲れにくいものはない。だけど、それでも、と私は思う。

「自分自身」しか持っているはずのないこの感情を、心の中のわだかまりを、惑いながらも自分の力で、なんとか伝えてみようと試みること。

それは……きっと。そうすることでしか見ることのできない未来の景色を、見せてもくれさえするのではないだろうか。

そら / Sora

通信制高校に在籍中の17歳。 気に入った本や、日々の生活を通して感じたことなどを思いのままに綴ります。 趣味は読書、手芸、それに音楽を聴いたり歌ったりすることです :) I am Japanese, 17 years old and a homeschooler. Keep up with my daily life and journals!! Fav -> Reading, Handmade, Music, etc

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  • Post last modified:September 6, 2024
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