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『ちくまプリマー新書167 はじめて学ぶ生命倫理 「いのち」は誰が決めるのか』
小林 亜津子 (著), ちくまプリマー新書, 2011年10月10日
気になった箇所の引用
ブラック・ジャックが魅せる医師としての使命感は、「ヒポクラテスの誓い」という宣言文に表されています。「ヒポクラテスの誓い」は、医学の父と呼ばれる古代ギリシアのヒポクラテス(紀元前四世紀)が、医師としての職業倫理を神々に対する誓いの形で書いたもので、世界中の医学部で学ばれています。
P37
もちろん、医師たちは全員、「ヒポクラテスの誓い」を知っています。
医学部で学生たちにこれを暗誦させることもありますし、医学部向けの予備校のホームページの冒頭に掲載されていることもあります(すでに医学を志す時点で、これを意識するように、ということです)。ですから医師であれば、これを知らない人はいません。
その「誓い」のなかには「頼まれても、致死薬を投与しません」という一文があります。たとえ患者に頼まれたとしても、生命にとって不利益となる行為をしないということが、はっきりと書かれています。
ペイジの行為は、これに反することになります。患者のいのちを救うという使命を持っている医師が、患者のいのちを終わらせてしまうということは、医師の自己矛盾にも見えます。
また、「死への一時間」という話のなかで、「もしものことがあったら楽に死なせてほしい」という患者との契約を果たすため、瀕死の患者のもとに現れたキリコは、患者を助けようとするブラック・ジャックと鉢合わせしてしまいます。手術を敢行しようとするブラック・ジャックに対して、キリコは、もし患者を助けられなかったら、安楽死を実行するという約束をして、その手術を見守ります。結果、ブラック・ジャックは見事に手術を成功させるのです。
P42~45
事のなりゆきを見届け、ひとり夜景をみつめながらたたずむキリコ。ブラック・ジャックは背後から声をかけます。「どうだい大将、殺すのと助けるのと気分はどっちがいい?」すると、彼は「ふざけるな。おれも医者のはしくれだ。いのちが助かるにこしたことはないさ……」と言っています。
キリコだって、患者には助かってほしいんですよね。
そう、治る見込みのない状況になったときに初めて、医師の手による「安楽死」が必要になると、キリコは考えているのです。医師としては残念なことだけれど、患者のため、「苦しまずに死にたい」という患者の最後の希望を叶えるための「安楽死」なのです。キリコは本当は、恐ろしい「死神」のイメージとは、ちょっと違うのかもしれません。
キリコというキャラクターも、そして『女医』のペイジの苦悩も、ともに「治る見込みのない患者の延命が、ほんとうに患者の幸福になるのか」という深い問いを投げかけています。
みなさんにとって理想的な医師とはどんな人ですか?
ブラック・ジャックのように、医師はいかなる人であっても、「尊いいのち」を「自然な終わり」がくるまで救い続けるべきなのでしょうか。それとも、治る見込みのない患者を、報われない苦しみから解放することもまた、患者を「救うこと」なのでしょうか。
高度な医療技術や天才的なメスさばきを駆使して、あきらめかけていた状況から救い出された患者にとっては、その医師は「名医」でしょう。
けれども、クロニン氏にとっては、自分の苦しみに寄り添い、苦境から解放してくれたペイジこそが、最高の「名医」だったのかもしれません。
そのとき、両親にも、医療チームにも、ラクシュミから分離される子どもを「殺す」という考えは浮かんできませんでした。頭がなかったからです。
P142~143
つまり、人間とはなにかを考えるとき、頭があるかどうかということが、大きなポイントになってくるということですね。
じつは、さきのジョディとメアリのケースについての議論のなかには、「メアリは「しゅよう」のようなものだ」という意見もあったのです。メアリの脳の大部分が機能していなかったため、人間というよりは、ジョディの身体にくっついている「しゅよう」のようなものとして考えれば、ジョディのために「しゅよう」を取り除く分離手術は認められるというのです(もちろん、これは脳が機能していないヒトは「人間」とは言えないとまでいっているのではなく、ジョディを助けるために何とか分離手術を正当化したいという気持ちから主張された「苦肉の策」です)。
頭があったり、脳が機能したりすることが、人間であるか、そうではないか、あるいは、いのちの優先順位と結びついてくることが、生命倫理の場面ではときどき見られます。
みなさんは、いかがでしょうか。
ジョディとメアリのケースと、ラクシュミのケースとは、何が違うのでしょうか。
そして、メアリは「しゅよう」なのでしょうか。
感想と思考
数日前、私は歯医者に行った(と言っても虫歯になったわけではなくて、定期的に通っているクリニックがあるためだ)。
処置のあいだ、ライトのまぶしさから目を閉じたり開けたりしていた私は、ふとこんなことを思った。「この衛生士さんは私が目を開けているときと閉じているときとで、やりやすさは変わるのだろうか……?」と。視線があうとちょっと気まずいかなとか、いやでもそんなこともう慣れっこになっているかもしれないなとか。口を開けた状態の私はひそかに、そういったことを考えながらいたのである。
今回読んだ本『はじめて学ぶ生命倫理』のなかで、
つまり、人間とはなにかを考えるとき、頭があるかどうかということが、大きなポイントになってくるということですね。
P142
という一文に出会った。これは「結合双生児の分離手術」について書かれた章のもので、「頭のある児2人が結合しているとき」と「頭のある児1人と、手足のみの児とが結合しているとき」の両者について比較している箇所に出てくる。
筆者の考えによると、「人間」として認識してあげるための重要な要素のうちのひとつは「『頭』という部分があるかどうか」なのだそうだ。かくいう私も最初は、この考えに納得した。確かに頭以外の部分……例えば足や腕などが欠けていたとしても、そこに「頭」があり「顔」がありさえすれば、私たちはとくに疑うこともなくその相手を「人間」であると認識する。小学生のころに私が読んだ本『手足のないチアリーダー』の筆者である佐野亜美さんも両腕・両足がない方だけれど、私が佐野さんを人間ではないと考えたことなんてもちろん、ただの一度もない(むしろ、とても尊敬している方だ!)。
いっぽうで、でも……と私は思う。「人間である」と認めるにあたって(知らず知らずのうちに)私たちが重要視しているものは、もう少し深いところにあるのではないか?と。だって人型ロボットにも確かに頭はあるのに(そして基本的な形(見た目)も人間と似ているのに)、私はそれを「人間」だなんて思わないし。幼い頃遊んでいたお世話人形(ちなみに私が持っていたのは「メルちゃん」。)にだって立派な頭があったのに、やっぱりそれも「人間」とはちがうし。
それで私は、思った。人間が人間たるものであるうえでいちばん大切な要素は実は、「まなざし」なのではないか?……と。
以前読んだべつの本に、こんな一節がある。
そのとき、なにかが腑に落ちた。見ているだけでいい。目撃者、もしくは立会人になるだけでいい、と。
『傷を愛せるか 増補新版』P15~16, 宮地 尚子 (著), ちくま文庫, 2022年9月10日
「なにもできなくても、見ていなければならない」という命題が、「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」というメッセージに、変わった。
ちゃんと見ているよ、なにもできないけど、しっかりと彼女が喪主の役割を果たす姿を目撃し、いまこの時が存在したことの証人となるよ。そしてこれからも彼女が彼女らしく生きていくのを、見つめているよ。喪失は簡単には埋まらないだろうけれど、それでもいいよ。急がないで。ずっと見ているから。見ているしかできないけど。……そう思った。
そう思わせてくれたのが、亡くなった彼のもっていた生命力からくるのかどうかはわからない。でも彼も、どこかから見つめているにちがいない。
英語では、目撃することも証人も、「ウィットネス」という。目撃すること。証人になること。自分が直接ひどい目に遭ったわけではないから、その恐怖や緊張は、本人にも周囲にも気づかれないままのことが多いが、強い負荷を心身にかけるはずだ。子どものころのわたしも、どれほど怖かっただろうと、ようやくそのことに思いがいたる。けれども同時に、子どもが自分で感じるほど、子どもは無力ではないのかもしれない、ということにも気づく。起きたことを目に焼きつける子どもがいることで、救われる人間もかならずいるはずだから。
これは精神科医でありまたトラウマ・ジェンダーをはじめとする「医療人類学」の分野の研究者である宮地尚子先生が書かれた、『傷を愛せるか』という本のなかに出てくる文章なのだけれど。
なにもできないけれど、それでも私はここにいるよと、まなざしを相手に送ること。とくべつな力になることはできないけれど、ちゃんとここから見ているよ、と、言葉にならないあたたかなものをそっと手渡してあげること。
ただ単にその物体、たとえば「頭」が存在するだけでは感じることができないもの。けれどそれが心をもつ「人間」であったときには、私たちはそこから「まなざし」という、生きているもの特有の「なにか」を受け取ることができる。たとえその相手に欠けているパーツがあったとしても、言葉を通わせることができなかったとしても。
だからこそ『はじめて学ぶ生命倫理』のなかで登場したジョディとメアリの両親は分離手術を躊躇したのだろうし(メアリからも「まなざし」を感じることができたから)、いっぽうでラクシュミの両親は迷うことなく分離手術をすることができたのだと思う(パーツのみの「もう1人」からは、相手の存在を認め想う「まなざし」を受け取ることはできなかっただろうから)。
ちなみに、(私自身の考えとして)ひとつ付け加えておきたいことがある。わたしはなにも、すべての「まなざし」がつまり「視線が合うこと」だとは思っていない。もし仮にそう考えてしまうと……例えば目の不自由な方だったり、いろいろな特性をもっていて目を合わせることがむずかしかったりする相手だったり、は一体どうなるのかということになってしまうだろう。けれど私は、必ずしも「まなざし」が「視線」である必要はないと思っている。
宮地先生の先の文章によると、先生がそのとき「彼女」に伝えたかったのは
ちゃんと見ているよ、なにもできないけど、しっかりと彼女が喪主の役割を果たす姿を目撃し、いまこの時が存在したことの証人となるよ。そしてこれからも彼女が彼女らしく生きていくのを、見つめているよ。喪失は簡単には埋まらないだろうけれど、それでもいいよ。急がないで。ずっと見ているから。見ているしかできないけど。
『傷を愛せるか 増補新版』P15~16, 宮地 尚子 (著), ちくま文庫, 2022年9月10日
という思いだ。であれば、「ちゃんとあなたの存在を認識しているよ」「あなたの『こころ』そして『いのち』がそこにあることを、私はちゃんと知っているよ」と、なんらかのかたちで相手に伝えようと試みること。それこそが広い意味での「まなざし」であり、人間が人間たるものとして存在していくうえで大切になるものなのではないか……と、私は思うのだ。
「まなざし」というこの能力を、幸運にも授けられたひとりとして。私はこれからも「人間」であることに誇りをもって、生きていくことができるといいな……と思う。