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『燃えるスカートの少女』
エイミー・ベンダー (著), 菅 啓次郎 (訳)
角川書店, 2003年5月30日
少し前に読んだ、宮地尚子先生の著書『トラウマにふれる』のなかで取り上げられていたことがきっかけで手に取った本。どことなくファンタジーであるかのような要素がふんだんに散りばめられていて、それでいて哀しいくらいに現実的で。痛みと苦しさと、温もりと……それらが同時に押し寄せてくるような、そんな1冊だった。
心に響いた箇所の引用
カップを手に入れられなかった人たちは火の女の子のところにいった。困ったり、さびしかったり、苦しんでいるときに、かれらは彼女に会いにいった。運がよければ彼女は燃える腕をバケツから出して、手首の先端でかれらの顔にやさしくふれてくれた。火傷はゆっくりと癒えて、頬には痕が残った。いま、町にはそんな痕のある人々の一群が歩きまわっていた。私はかれらに訊いた。痛いの?すると傷跡のある人々はうなずいた、うん。でもね、それは何かすてきな気持ちだったんだ、とかれらはいった。長く感じられる一瞬のあいだだけ、世界がかれらを抱きしめてくれるような気がしたのだった。
P180, 『癒す人』の章より引用
感想と思考
この本 (『燃えるスカートの少女』) は実は「短編集」なのだけれど、全ての章のなかから一番のお気に入りを選べと言われたら、私は間違いなく『癒す人』を挙げる。
『癒す人』。なんてすてきなタイトルなんだろう。「救う人」でも「手を差し伸べる人」でも、「慰める人」なんかでもなくて。「癒す人」、ちなみに原題では “The Healer” (目次ページには、英語の原題もあわせて書かれている)。ただ傍に、隣にいて、そっとやさしく痛みを分かちあってくれるような。そんな感触が、この “The Healer” という言葉からは伝わってくる。
「癒す」方法、それはもちろん人それぞれ違う。氷の女の子は、彼女の手だけが持つ水で病気の人たちを助けてあげる。ロイが皮膚を刻むのだって……きっとそれは彼が彼自身のこころを「癒す」ための行動なのだろうし、その傍らでロイの腕を焼く火の女の子だって、彼女なりの方法で痛みに寄り添い、ロイを「癒して」あげている。それから「私」……つまりリサが牢屋へ、包丁を持って行き火の女の子に手渡したことだって、ある意味こころを「癒す」ことに繋がっているのかもしれないな、なんてことを思ったりもする。
はたから見るとその行動は、ときどき理解されないかもしれない。その一部分だけを切り取れば確かに、咎められるようなことをしている、のかもしれない。
でも……やっぱりその行動(ときに破壊的だったり、つらく見えたり、えとせとら。)の根本にはいつも、「癒したい」という気持ちがあるのだと思う。本当にひとりぼっちになってしまうと叶わない、けれど孤独なときこそ強く感じる、「癒されたい」という思い。むずかしいな、とさえ思う。……だからこそ。
私は、「分かち合う」ことが大切なのではないかと思う。物語の終盤、冷蔵庫の中に「千個の小型カップが魔法の氷で満たされ」たものが発見される(ちなみにこれは氷の女の子の仕業だ)のもだから、分かち合う大切さを伝えるための伏線なんじゃないか……なんて思ったりもする。火の女の子が、ひとびとの顔をやさしく焼いてくれることだってそうだ。
「痛みはちゃんとここにあるよ」と、他の誰かが確かに認識してあげること。そしてそれを否定するでも非難するでもなく、そっと分かち合い、やさしく撫でてあげること。そうすることができたときに初めて、人は「癒され」るのではないか……なんて。私は今、そんな気がしてならないのだ。
「癒す人」、「分かち合える人」に。私もいつか、なれたらいいな。