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センス・オブ・ワンダー by レイチェル・カーソン (訳: 上遠 恵子)
新潮文庫 2021年9月1日 (旧版: 新潮社 1996年7月)
再読本。なお初めて手に取り読んだのは13歳、学校の図書室で見つけたときだったと記憶している(そのときに読んだのは文庫版ではなく、ハードカバーの単行本だった)。
私が「自然」というもの、また「感じる」ということに対して興味を持つようになったきっかけの1つである、私にとってとても大切な1冊だ。
どんな本?
生物学者であるレイチェル・カーソンが姪の息子「ロジャー」に向けて、晩年に記したもの。実際に体験してみることの意義や、子どもの頃の感性を忘れないでいることの大切さなどを詩的な文章にのせて伝えてくれる。
心に響いた箇所の引用
過去に読んだことがある本なのにも関わらず、まるで初めて読んでいるかのような感覚に何度も陥った。あの頃私がこれを読んで抱いたのはただ、自然に対する畏怖とそれを美しいと思う気持ちだけだったはずなのに、今の私が読みながら感じているのはどうやらそれだけではないらしいぞ……と。
また、文庫化にあたって4人の著名な方々からの寄稿も加えられていた。こちらは本当に、初めて読んだものだ。そして(カーソンが書いた)本文からのみではなく、この「寄稿」の中にも特に気に入る箇所がいくつかあった。
よって今回私は本文中から1箇所、寄稿内から2箇所、引用をすることにした。
わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
P36
子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。
大人になると、つまり性的成熟を果たすと、生物は苦労が多くなる。パートナーを見つけ、食料を探し、敵を警戒し、巣を作り、縄張りを守らなければならない。そこにあるのは闘争、攻撃、防御、警戒といった、待ったなしの生存競争である。対して、子どもに許されていることはなんだろう?遊びである。性的なものから自由でいられるから、闘争よりもゲーム、攻撃よりも友好、防御よりも探検、警戒よりも好奇心、それが子どもの特権である。つまり生産性よりも常に遊びが優先されてよい特権的な期間が子ども時代だ。
P90、寄稿: 福岡 伸一
おまじないのような、効率や合理性とはほど遠いものが、創造につながるのです。だから子どもたちには本を読んでほしいと思う。
P135、寄稿: 角野 栄子
感想と思考
読み終えたとき私は急に、11歳の夏~秋の数か月のことを思い出した。カーソンがこの本の中でなんども訴えかけていた内容に、通ずる部分があったからだ。また同時に、数日前に「線は、僕を描く」を読んだことで抱いていた、うまく言語化できずにいて自分の中でもやついていた思考についても整理をすることができた( 読書記録 – 線は、僕を描く )。「脳内の霧が、少し晴れた!」とさえ思えた。
私は11歳の夏~秋頃、毎日午後になると近所の公園に出かけていた時期があった(ちょうど、学校に行かないことが多かったときのことだ)。もしかすると、多少記憶が間違っている部分があるかもしれないが。
とはいえ、公園らしい遊びをするために行っていたのではなかった。もちろん、誰かと集まって過ごすわけでもない(ちなみに……私は今までずっと、そして現在もなお、ひとと友好関係を築くことがおそろしく苦手だ。一体なぜなんだろう。性格?特徴?)。私は毎日、ただその公園の周り(裏、と言った方がいいかもしれない)に茂っていた木々の根元に隠れるように座って、夕方になるまでひたすらに本を読んでいたのだ。今思い返すと、かなり不思議なことをしている子だなあと我ながら思う……(笑)
べつに本なんて、どこででも読める。わざわざ公園なんかに行かなくたって。それでも私は、毎日通い続けていた。
それで私は、どうしてあんな面倒くさいことをしていたんだろうと考えてみた。現実逃避したかったのかもしれない。学校に行くのは苦しかったけれど、一方で一日中家にいることにもやはり息苦しさを感じ始めていたのかもしれない。でも……そのすべての感情の根底には、「自分の力ではどうしようもできないものを感じたい」という気持ちがあったのかもしれないな、とこの本を読み終えた今の私には思えた。
今でもあの数か月間のことを思い出そうとすると、記憶されたたくさんの「感覚」が自分の中に流れ込んでくる(なんだかうまく言えなくてもどかしいけれど)。例えば日によって変わる、風の優しさぐあいとか。歩く度に絶妙な音をたてる足元の落ち葉のことや、夕暮れ時のからすの鳴く声とか。帰路につくときに、どこからともなく漂ってくる晩ご飯の匂いなんかもそうだ……。
あの頃の私に、知識なんてなかった(じゃあ今の私が持っているのかと聞かれると、全然そんなことはないのだけれど(笑))。植物や動物などの生きもののことにだって、天気のことにだって、なにも詳しくなんてなかった。でもそれは、そんなに重要ではなかったんだなとこの本を今回読んで思えた。生産性とか合理性とか……そういった難しいこと・ややこしいことを考えずに、自分に素直に周りのものごとを「感じて」いた、それ自体に意味があったんだなと気づけたからだ。
知っているとかまだ知らないとか、そういうことに意味があるんじゃない。大切なのは子どもの頃の感性を忘れないで、素直に「感じて」みようとすることなんだ(誰がどう見てもまだ子どもの私が、こんなことを言うのもどうかと思うけれど)。読み終えた私は今、このような結論に至っている。
13歳の私と今の私では、同じものを読んだにもかかわらず感じたことは異なっていた。では、さらに数年後の私がまたこの本を読んだら……?感じることは、考えることは、やはり今とは変わっているのだろうか。素直な感覚は、まだ忘れずに持ち続けられているのだろうか。今の私のこんな感情は、記憶に残っているのだろうか。
忘れないでいてくれていたら、今の私はとても嬉しい。
未来の私は、この文章を読んでいますか?