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『ちくまプリマー新書342 ぼくらの中の「トラウマ」 ーーいたみを癒すということ』
青木省三 (著), ちくまプリマー新書, 2020年1月10日
「トラウマ」について、いろいろな切り口からその症状や対処法・治療法、周囲の人たちが関わるうえで心に留めておくとよいこと……などを、分かりやすく解説してくれる本。隣の区の、N図書館で借りた。
気になった箇所の引用
心の傷から流れ出す血は目には見えない。その人の心はいたんでいるのだが、周囲の人にはわからないことが多い。多くの人が心のいたみを口にせず、口にするのはいけないことだと思っていたりする。それだけでなく、自分は弱い人間だ、自分はダメな人間だと責めていたりする。だけど、弱い人間でも、ダメな人間なのでもない。それは、心の傷がいたんで出血しているのだ。そのことをその人だけでなく、周囲の人たちにもわかってほしい。身体の傷が消毒や処置で癒えるように、心の傷も心への消毒と手当があれば癒えることを知ってほしい。心の傷から血が流れだしているのに気付き、手当をすることが大切なのだ。
P13~14
いつ今の暮らしが変化し危険なことが起きても不思議ではない、という不安定な環境の中で成長していく子どもは、その変化や危険を察知しようと、世話をしてくれる人の表情や雰囲気を読み、言葉に耳をすませて生きていく。些細な変化も、家庭の破局や自分が一人になるサインかもしれないと、いつもアンテナを研ぎ澄ませた警戒態勢の中で生きていくようになる。それが頑固な、頭痛、腹痛、不眠などをもたらしていたのである。長年、このような環境下にあった心と脳と身体の警戒態勢を緩めることは、決して容易なことではないが、生きている生活環境が安全で安心なものでありつづけ、そして自分は守られていると感じられるようになることがトラウマを癒す第一歩となるのである。
P32
最後まで、僕は彼の体験した「恐い出来事」についてたずねなかった。「話さなくてもよい」と最初に話したことを大切にしたいと思ったし、経過のなかで「恐い出来事」が薄らいでいったので、それで充分ではないかと思った。彼の場合は、もし話していたら、その出来事をありありと思い出し、取り乱し混乱してしまったのではないか。それが彼の誇りや自尊心を損ない、症状をよりこじれたものにしたのではないかと思う。
P39~P40
支援者は、できるだけ寄り添いたいと細かくたずねようとする。しかし、それは手術のメスのようなもので、支援的に働くこともあるが、同時にその人を驚かす侵襲性をもったものになる。そのことを忘れずにいたい。その人にはその人なりの回復力 と回復の道筋があり、それを見守ることも大切だ。見守られていること自体がその人の回復力を強めるのだ。
人と世界への信頼が揺らいでいるという状態で生きていくということは、波に揺すぶられながら危なっかしく進んでいる船に乗っているようなものだ。自分というものが安定していないのだ。
P94~95
では、心が安定していないときはどうしたらいいのだろうか。僕はまず、自分が生きている毎日を変化の少ないものにするように勧めている。生活というものは、自分を入れている器のようなもの。生活という器がグラグラしていると、自分もますますグラグラしてくる。一日の大きなリズム、例えば何時に起きて、学校や職場に行き、何時ごろに帰って、ご飯を食べて、何時ごろに寝るというような生活リズムを整える。人、特に新しい人との出会いは楽しみでもあるが、それが刺激となって不安定にもなりやすいので、新しい人との出会いは少なめに絞る。刺激の少ない、リズムの整えられた生活を送っていると、その中で、人に対する不安定さや感情の不安定さが少しずつ和らぎ、人と世界への信頼が形作られていく。「穏やかで平和な日常生活」を送るということこそが大切なのだ。
●働くということ
精神科医の滝川一廣は、働くことについて「自分も社会の一員である、ひとびとのあいだに自分もいる、ひとびとの中に役割をもっているという感覚が、生きる実感と安心を支えます。その実感と安心がもてるもっとも確かなてだてが、働くことなのです」(二〇一二年)という。働くことには、稼ぐというだけでなく、人々の繋がりの中にいると感じられることに意味がある。
P131
ただもちろん、働くことへのプレッシャーに苦しむ人たちをみたり、働きたくても働くことができない人たちをみると、何よりも、生きているということが最優先で価値あることである。そして、生きていることそれ自体が、滝川の言う「ひとびとの中に役割をもっているという感覚」に繋がるような支援はできないかと思う。
目の前の光景が変わる。それは時に不安を掻き立てることもあるが、新しい光景が刺激となり、固まった思考や感情を解きほぐしてくれる働きもあるのだ。
P163
旅をするという非日常に入る体験が、日常生活を活性化する。非日常の世界では、物の見え方や時間の流れ方が異なってくる。平凡な景色がいきいきと、昨日が遠い昔のように感じられる。初めての街を歩くと目に入るものが皆、新鮮に見える。住み慣れた街では目に入らなかったものまでが見えてくる。樹木の一本一本が、街灯の一つ一つが異なった輝きをもって見えてくる。
P166~167
そして、何よりも、さまざまな人々、そして人々の暮らしを見るようになる。日常生活では僕たちは絶えず何かしていて、じっと止まるときがない。家庭や学校や病院で、人々の暮らしを見る機会は意外なほど少ない。旅人はしばしば立ち止まる。止まって人々と人々の暮らしを眺める。そして少し言葉を交わす。それも、トラウマを癒すのにとてもよいように思う。
僕らのトラウマを癒す
「トラウマは人の中で癒える」と前章に書いた。それは一人のトラウマが、周囲の人たちの支えの中で癒えていくようなイメージである。だが、ヒロシマのように多くの人がトラウマを抱えているときは、トラウマのいたみは、分かち合うことによって癒えていくのではないか。言葉にするかしないか、何かで表現するかしないかは別として、互いにいたみをもっている存在であることを感じつつ、苦しみや記憶を分かち合い、助け合い、支え合う。僕のトラウマが僕らのトラウマとなったとき、はじめて癒えていくのではないかと思う。そして、一人ひとりのいたみはいくらか癒え、静かなしかし決意をもった平和や穏やかな日常への思いとなる。
P209~211
それだけでなく、普通に生きているように見えても、「人は大なり小なりトラウマをもっている」と捉えると、助ける人が同時に助けられ、支える人が同時に支えられるという、助け合い、支え合いの関係のなかで、個々のトラウマは癒えるのではないか。トラウマを話す話さない以前に、気持ちのよい挨拶を交わす、そしてグチやぼやきの一言二言を交わしながら、それぞれの日々を過ごしていく……そのようなことの繰り返しのなかで、自分は一人ではない、自分の居る場所がある、自分は受け入れられている、という感覚が育まれる。それこそが癒える基盤というか、基盤という以前の土台のようなものになるのではないかと、僕は思う。
感想と思考
数日前に、母が私にとあるフリーペーパーをもらってきてくれた。そこに掲載されていた内容のなかに、(これまた)とある作家さんにまつわる展示のおしらせ、があった。普通の電車で行くのはむずかしい……たとえば新幹線に乗って行かなければならないくらいの、そんな場所で開催される、展示。
私は正直、すごく迷っていた。なぜならこの作家さんは私が小学生の頃からすごくすごく好きで、しかもこれは常設展示ではないのだからこんな機会はまたとない(かもしれない)。だから今行かなければ、きっとチャンスを逃してしまう……はず。
それに、仮にまた別の場所で似たようなものが開催されることがあったとしても、その情報をそのときの私が入手できるかどうかもわからない。タイミング、ってものもあるし。
だけどいっぽうで、不安もすごくあった。新幹線に乗って行くようなプチ長旅なんて、今の私にできるのかしら。見慣れた日常からはなれて「非日常」に飛び込むことは、やっぱりいくらかの勇気がいる。
それでもそれにえいやっと抗って、1歩を踏み出してみてもいいのかしら……。
なあんて。思ったりもしていた。
けれど。そんな矢先にこの本をたまたま手にとって、私の気持ちは固まった。行ってみよう、と。不安ももちろんあるけれど、まあやってみるだけやってみよう、と。
目の前の光景が変わる。それは時に不安を掻き立てることもあるが、新しい光景が刺激となり、固まった思考や感情を解きほぐしてくれる働きもあるのだ。
P163
旅をするという非日常に入る体験が、日常生活を活性化する。非日常の世界では、物の見え方や時間の流れ方が異なってくる。平凡な景色がいきいきと、昨日が遠い昔のように感じられる。初めての街を歩くと目に入るものが皆、新鮮に見える。住み慣れた街では目に入らなかったものまでが見えてくる。樹木の一本一本が、街灯の一つ一つが異なった輝きをもって見えてくる。
P166~167
そして、何よりも、さまざまな人々、そして人々の暮らしを見るようになる。日常生活では僕たちは絶えず何かしていて、じっと止まるときがない。家庭や学校や病院で、人々の暮らしを見る機会は意外なほど少ない。旅人はしばしば立ち止まる。止まって人々と人々の暮らしを眺める。そして少し言葉を交わす。それも、トラウマを癒すのにとてもよいように思う。
そう、私は文中の上の↑部分を読んで、背中を押してもらったのだ。
「未知のもの」を「信じる」ことには、とても大きなエネルギーがいる。信用してしまったら被害をこうむるかもしれないだとか、自分が傷つけられてしまうかもしれないだとか。そういった類のことが頭をよぎってしまった時点で、「信じる」ということ、その行動の難易度はとたんにはねあがる。
それで私は、考えた。ならばなぜ、世の人々はそれでも「(その対象に対して)まだよく知らない部分もあるけれど、でもまあとりあえず信じてみよう」という気持ちになることができるのだろう?と。「信じる」ことへのハードルの高さは人それぞれ違う(はずだ)けれど、ならばその差異はいったい、どこからくるものなのだろう?と。
答えは1つきりではもちろん、ないと思う。とはいえそんななかでも私が、出してみたある結論がある。それは「心の中にその人なりの『自分だけの安全基地』があるかどうか」なのではないか、というものだ。
ちなみに、私のだいすきな小説『すきまのおともだちたち』のなかにも、こんな一節があったりする。
「帰れないわ」
『すきまのおともだちたち』P20, 江國香織 (著), 集英社文庫, 2008年5月25日
私はかなしくなりました。旅が素敵なのは、帰る場所と方法があるからこそです。
この本のテーマでもある「トラウマ」を抱える人たちは、(おそらく)「何か」から心を傷つけられた経験をもっている。その「何か」が何なのか、はもちろん人によって違うだろう。一方で、「傷つけられた経験」があるがゆえに世界を「信じる」ことにむずかしさを感じている……という点では、共通しているのだと思う。
だから例えば、「物」に助けを求めてしまったりもする(のだと思う)。それも、あまり上手ではない方法で(今の私自身がそうだし……)。今までさんざん「人」に傷つけられてきたから、いつ豹変したり目の前からいなくなってしまったりするか分からない「人」を信じることが怖いから。だから、裏切ることのない「物」にしか頼ることができない。さみしいな、とさえ思う。
だけど。だからといってべつに、一生これから悲観し続けなければならない、ってわけでもない。「人」の優しさにふれて、自分がここにいてもいいんだという、生きていくうえでの役割を見つけて。自分を傷つけられたその相手は「人」かもしれないけれど、でもまた「人」のネットのなかで、すこしずつ癒やされていけばいい。もちろんそれが口で言うほど簡単なことではないことは私自身、重々実感しているけれど。でもいつか、いつかまた「人」を信じてみてもいいかなと思えるそんな日が、くればいいのにな……と思う。
とりあえず、今の私は。11月に行くことを決めた、新幹線での「プチひとり旅」を満喫するんだー!
世界、ほんのちょっっとだけ。もう一度信じてみよう、かな……。
おまけ。
私がひそかに大尊敬……!している、芦田愛菜さんのインタビューを下↓においておく(私もこの考え方には、ものすごく納得できた)。
「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」
芦田愛菜「信じる」が中国人も称えるほど深い訳 年齢も国境も超え、天才子役から人格者に成長 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)
「信じる」ってこと。深い、ね。