*Please note that this page may contain some affiliate links.
※当ブログでは、アフィリエイト広告(リンク)を利用しています。
『小説 天気の子』
新海 誠 作, 角川文庫, 2019年7月25日
どんな本?
あのおなじみの映画「天気の子」の、監督が自ら執筆された公式・小説版。実は以前から家の本棚にあり読んだこともすでにあったのだが、先日(なぜかは分からないけれど)不意に、この本を猛烈に読みたくなった(というかもはや、この本が「読んで!」と私に言っているような気さえした。……ほんとだよ!!)それで久々に手に取り、一気に読んでしまった。
心に響いた箇所
がくんと、しかし水の抵抗がタイヤを止める。カブは水を滑りながら、ぶくぶくと泡を吐いて沈んでいく。
P241~242
「——ここまでだ!」
私はくっきりと帆高くんに言う。私の役割はここまでだ。本当は飛び込む前から分かっていたのだ。——でも。
「帆高くん、行って!」
「うん!」
帆高くんはカブの荷台を足場にして、水没しているトラックの屋根に手をかける。カブを蹴り、その勢いでトラックの屋根に登る。私のカブは完全に水に沈む。私はバイクから降りる。水は腰ほどの高さだ。
帆高くんは躊躇せずに有刺鉄線をよじ登る。
「ありがとう、夏美さん!」
一瞬だけ私の目を見てそう言ってから、少年は線路に飛び降り、まっすぐに駆け出す。私は息を大きく吸って、めいっぱいの声で叫ぶ。
「帆高っ、走れーっ!」
彼はもうちらりとも私を見ない。どんどん遠ざかっていく。私の口元は笑っている。パトカーのサイレンがすぐそこまで迫っている。
——私はここまでだよ、少年。
私は胸の中で、もう一度そう言う。
私の少女時代は、私のアドレセンスは、私のモラトリアムは、ここまでだ。
少年、私はいっちょ先に大人になっておくからね。君や陽菜ちゃんがどうしようもなく憧れてしまう大人に。早くああなりたいって思えるような大人に。とびきり素敵な、圭ちゃんなんて目じゃない、まだ誰も見たこともないようなスーパーな大人に。
遠ざかっていく思春期の背中を見つめながら、晴れ晴れとした気持ちで私は祈る。
だからちゃんと、君たちは無事に帰ってくるんだよ。
感想と思考
私は実はこの映画「天気の子」は2019年、映画が公開されたその年に映画館で、実際にみている。だからこの小説を読んでいるときに、映画のそのシーンが脳内で再生されることも、けっこうあった。そしてそれは上で引用した箇所にも当てはまる。
というのも今の私は、このシーンには「大切な比喩」が隠されているのではないかな……、と思うのだ。
私が初めてこの映画をみたとき(ちなみに私はこの話を、小説と映画だと映画の方を先にみた)、そのときの私はまだこのシーンをよく理解できなかった。「どうして帆高はこんな迷惑なことをするの?線路の上に降り立って、走っていく?また夏美さんもそれを咎めず、むしろ応援して送り出している?なんで?どうしてなの?」としか思えなかった。
けれど今の私は、そのときの私とは少し違う考えを持っていることに気が付いた。それは、「これは本当は『比喩』なのではないだろうか?」というものだ。
今の私はこの「帆高」と同い年だ。だからかどうかは……分からないけれど、なんだか痛いほどに帆高の感情が伝わってくる、分かってしまう、そんなところがあったりもする。
今までの小さな私には、「常にそばにいて助けてくれる人(例えば夏美さんのような)」がいることも多かった。それに今の私にも現に、「この人とずっと別れたくない、いつまでも自分のそばにいて助け続けてほしい、お別れしたりしないでほしい」と思う相手が何人もいる。もちろん心のどこかでは「四六時中自分の隣にいて助けてくれる人なんていないんだよ」「結局最後に頼りにしなきゃいけないのはいつも、自分自身でしかないんだよ」ということは頭ではわかっている(つもりだ)けれど、それでもやっぱり「離れたくない」という気持ちが自分の中にあることは認めざるをえない。
だけど帆高はここで、自分の力で線路に降り立って、自分の足で走っていくことを選んだ。ずっと夏美さんたちのそばにいればそれなりに心地よくいられたかもしれないのに、それでも自ら進む方を選んだ。「どうしてそんなことをしているの?」と冷ややかに笑う人たちも確かに周りにはいるけれど、でも自分はこの方向へ進むんだ、と決めた。そしてそんな帆高のことを夏美さんは、引き留めたりせず、ただただ「走れーっ!」と応援し背中を押した。
……そう、私はこの一連の流れがまるごと、「比喩」なんじゃないかなと感じたのだ。
私もこのときの帆高と同じで、今はまさに大人への階段を上っている真っ最中だ。今までの私はほとんどいつも、心のどこかでひとに自分の思いや感情をゆだねている部分があった。「あの人がこうしてくれたから」とか、「あの人がここにいたからこうしたんだ」とか。「あの人がこう言ったから、自分もこっちの方がいいなと思って選んだ、だからこんなひどい結果になってしまったんだよ」なんてのもある。
でもそろそろ私は、そんな考え方を卒業するときなのかもしれない。もちろん少し立ち止まって振り返ってみれば、夏美さんのように、大丈夫だよと応援してくれている人たちが後ろにはいることに気づく。だけどその気持ちを受け取ったうえでどちらに進むのか、どのようにこれからするのかは、もう自分で決めなくちゃいけない、のかもしれない。
小さい頃のいろいろな体験や記憶も手伝って(もちろんそれだけではないけれど)、「大人になんてなりたくない」と思ってしまうことも実は、数えきれないくらいある。明るい未来なんて思い描けなくて、もうこれ以上前に進みたくないよと思ってしまうことだってある。そしてそんな気持ちが自分の中にあるから、運良く出会えた「自分のことを今、助けてくれている人」たちのことを考えては、「見捨てられたくない、離れたくない。だからこれ以上、成長なんかしたくない」という気持ちになってしまうこともある。
だけどやっぱり、ね。
私も少しずつ、自分の進みたいほうを見られるようになろう。いつかまた無事に「帰ってきたよ!」と言うその日のことを想像しながら、自分の意思で進めるようになってみよう。そうする方がきっとこれから、たくさんの素敵なことに出会えるだろうから。
私も帆高みたいに、なれるかな。いや、なってみせるんだ。